[ヒロシマドキュメント 1945年] 被爆当日の広島市 「35万人前後」いた
24年8月5日
1945年8月、建物疎開が進んでもなお、広島市中心部には多くの家屋や店舗が立ち並んでいた。
被爆前、市内には約7万6千戸の建物があった。市中心部の繁華街、本通り商店街は、約160店舗が営業を続けていたとされる。学校や病院も数多くあった。
また、日本の植民地支配下での貧困や、徴用・徴兵のために海を渡った多くの朝鮮半島出身者が市内に暮らしていた。中国大陸や東南アジアからの留学生、米兵捕虜たちもいた。
広島、長崎両市が専門家に編集を依頼して79年に刊行した「広島・長崎の原爆災害」は、45年8月6日の広島市の所在人口を「35万人前後」と推定している。その都市の中心部に位置する相生橋が、原爆投下の照準点となった。
(2024年8月5日朝刊掲載)
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また、日本の植民地支配下での貧困や、徴用・徴兵のために海を渡った多くの朝鮮半島出身者が市内に暮らしていた。中国大陸や東南アジアからの留学生、米兵捕虜たちもいた。
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(2024年8月5日朝刊掲載)
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