[ヒロシマドキュメント 1945年] 4月に米軍空襲 建物疎開が拡大
24年8月5日
1945年4月30日早朝、米軍のB29爆撃機1機が広島市を襲った。県女に近く、小町(現中区)にあった中国配電(現中国電力)の倉庫付近などに爆弾10発を投弾。米田富士江さんが登校すると「まうまうと黒煙が上ってゐた」(日記)。
市中心部へのB29の爆撃は初めて。中国新聞社写真部員だった松重美人(よしと)さん(2005年に92歳で死去)は自転車で駆けつけ、炎上する倉庫を撮影した。投弾場所近くに住んでいた佐藤多美枝さん(90)=中区=は「ごう音が響くと、家のガラス戸が全部割れて。とにかく怖かった」と振り返る。
広島県の被害報告によると、10人死亡、5棟全焼。内務省の指定を受けて44年末から県が進めた市中心部の建物疎開は一層の急務となり、45年5月から中学校や女学校の1年生も数多く動員された。対象区域になった家屋は強制的に壊された。
戦争遂行の上で重要な施設への延焼を防ぎ、空襲に強い「防空都市」を造るのが大きな目的だった。先だって米軍は4月1日に沖縄本島に上陸。軍施設が集まる広島市は「本土決戦」に備える西日本の拠点であり、同7日に西日本諸軍を統括する第二総軍司令部が置かれていた。
学校関係者には空襲時に避難が困難な屋外作業への生徒の大量動員を憂慮して反対する声もあった―。動員に関わった元県職員が手記で明かしている。しかし、協議した軍責任者が強く迫ったという。
8月3日から連日、学徒隊約1万5千人、地域・職域などで結成された国民義勇隊約3万人の出動が命じられた。そのために、多くの市民が爆心地に近い中心部で遮るものなく被爆した。
(2024年8月5日朝刊掲載)
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市中心部へのB29の爆撃は初めて。中国新聞社写真部員だった松重美人(よしと)さん(2005年に92歳で死去)は自転車で駆けつけ、炎上する倉庫を撮影した。投弾場所近くに住んでいた佐藤多美枝さん(90)=中区=は「ごう音が響くと、家のガラス戸が全部割れて。とにかく怖かった」と振り返る。
広島県の被害報告によると、10人死亡、5棟全焼。内務省の指定を受けて44年末から県が進めた市中心部の建物疎開は一層の急務となり、45年5月から中学校や女学校の1年生も数多く動員された。対象区域になった家屋は強制的に壊された。
戦争遂行の上で重要な施設への延焼を防ぎ、空襲に強い「防空都市」を造るのが大きな目的だった。先だって米軍は4月1日に沖縄本島に上陸。軍施設が集まる広島市は「本土決戦」に備える西日本の拠点であり、同7日に西日本諸軍を統括する第二総軍司令部が置かれていた。
学校関係者には空襲時に避難が困難な屋外作業への生徒の大量動員を憂慮して反対する声もあった―。動員に関わった元県職員が手記で明かしている。しかし、協議した軍責任者が強く迫ったという。
8月3日から連日、学徒隊約1万5千人、地域・職域などで結成された国民義勇隊約3万人の出動が命じられた。そのために、多くの市民が爆心地に近い中心部で遮るものなく被爆した。
(2024年8月5日朝刊掲載)
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