[ヒロシマドキュメント1945年] 8月5日で止まった日記 女学生 戦時下の日常つづる
24年8月5日
広島県立広島第一高等女学校(県女、現広島市南区の皆実高)1年で被爆死した生徒が1945年8月5日まで付けた未公開の日記帳が残っていた。建物疎開作業への動員を控え、「明日より八日間作業であるが元気を出して一生懸命働かうと思ふ」と記し、途絶えた。戦争と原爆投下によって断ち切られた命の記録を刻んでいる。(編集委員・水川恭輔、頼金育美)
当時13歳だった米田富士江さんの遺品。入学式があった45年4月6日に書き始め、授業や動員作業、家での手伝いなど戦時下の日常をつづっている。7月の10日余りを除き8月5日まで欠かさなかった。翌6日、県女1年生は爆心地から約800メートルの土橋地区(現中区)に防火帯をつくる建物疎開の後片付けに動員され、米田さんを含む現場に出た223人が全滅した。
戦後、母親の悲しみがとりわけ深く、娘の生前の姿をありありと伝える日記は家族の手で押し入れの奥に隠されていたという。受け継いだ、おいの清さん(70)=安佐南区=は「戦争がどれほど悲惨かを知るのに日記が役立ってほしい」と願う。
原爆資料館(中区)によると、被爆死した県女1年生が8月5日まで書き入れた日記の新たな確認は近年では珍しい。同館は7人の日記の原本を所蔵し、うち4人が8月5日まで記している。
◇
米軍により原爆が投下された広島に何が起きたのか。1945年の市民の被爆を記録した「ヒロシマ ドキュメント」や、証言を基に1日ごとにたどる。
(2024年8月5日朝刊掲載)
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当時13歳だった米田富士江さんの遺品。入学式があった45年4月6日に書き始め、授業や動員作業、家での手伝いなど戦時下の日常をつづっている。7月の10日余りを除き8月5日まで欠かさなかった。翌6日、県女1年生は爆心地から約800メートルの土橋地区(現中区)に防火帯をつくる建物疎開の後片付けに動員され、米田さんを含む現場に出た223人が全滅した。
戦後、母親の悲しみがとりわけ深く、娘の生前の姿をありありと伝える日記は家族の手で押し入れの奥に隠されていたという。受け継いだ、おいの清さん(70)=安佐南区=は「戦争がどれほど悲惨かを知るのに日記が役立ってほしい」と願う。
原爆資料館(中区)によると、被爆死した県女1年生が8月5日まで書き入れた日記の新たな確認は近年では珍しい。同館は7人の日記の原本を所蔵し、うち4人が8月5日まで記している。
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(2024年8月5日朝刊掲載)
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