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[ヒロシマドキュメント 1945年] 動員学徒「戦争に勝つため」信じ

 中学生や女学生たちの広島市中心部の建物疎開への動員は原爆被害に密接に関わる。原爆資料館によると、その作業風景を記録した写真は確認されていない。ただ、西岡誠吾さん(92)=廿日市市=が記憶を基に絵を描いて同館に寄せている。

 県立広島工業学校(県工、現県立広島工業高)1年だった1945年5月ごろから富士見町(現中区)などに動員された。大人が壊した家屋の柱に縄を掛け、引っ張って回収した。わが家が壊されるのをそばで見て泣いていた女性が忘れられず、絵にも残している。

 「お国のためにと教育を受けていた当時は『戦争に勝つためなのに、なんで泣くのか』と思っていました。でも今はあの女性の悔しさ、悲しさが痛いほど分かります」

 近所に住む県女1年柳川朋子さんも別の場所に動員されていた。4歳からままごとで遊んだ幼なじみ。「中学生と女学生の会話は禁じられた時代でね」。制服のときはお互いに無視したが、帰宅して私服に戻ると、「朋ちゃん」「誠吾ちゃん」と声をかけ合った。

 「県女の制服を着た朋ちゃんは、まぶしく見えました。大勢が集まる現場はトイレに困ると言って『疎開作業は大変じゃね』と話していました」

 8月6日、柳川さんは米田富士江さんと同じ土橋地区へ建物疎開作業に出た。県工1年生も中心部の建物疎開に動員されたが、体調を崩した西岡さんは別作業のため学校にいた。それで幼なじみ2人の生死は分かれた。

(2024年8月5日朝刊掲載)

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