[ヒロシマドキュメント 1945年] 戦時下の13歳 奪われた明日
24年8月5日
心弾む入学式 親の手伝い 田んぼから見た虹… そして6日の作業へ
戦火が絶えない。核兵器使用の恐れすら高まる。惨禍を繰り返さぬために、広島の被爆を克明に刻んだ記録「ヒロシマ ドキュメント」を世界の人類が共有すべきだ。来年の被爆80年に向け、被害者の記憶や思いとともに伝えたい。最初に1945年8月5日で途絶えた少女の日記を開く。学校生活に胸を弾ませる13歳はやがて戦争遂行のための危険な動員を強いられ、容赦ない核攻撃で「明日」を奪われた。(編集委員・水川恭輔、頼金育美)
広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年だった米田富士江さん=被爆当時(13)=の日記は45年4月6日に始まる。祇園町(現広島市安佐南区)の自宅から下中町(現中区)にあった県女の入学式に出た。
「母といっしょに行き通学の道順をはっきりおしへていただいた。明日から元気で登校しよう」
米田さんは母チエさん(83年に79歳で死去)の自慢の娘だった。戦後生まれのおいの清さん(70)は、米田さんの写真を鏡台に置いて毎日拝むチエさんの姿が目に焼き付いている。「地元の神社で巫女(みこ)を舞ったときの写真でね。原国民学校(現原小)の首席の女の子が舞う習わしだったそうで、おばあちゃん(チエさん)はうれしかったんです」
「よい成績を取る様に努力しよう」(4月10日の日記)。米田さんはそう意気込みつつ、農家だった両親の手伝いにも精を出した。日記の「手伝」欄に「キウリの手入」「玉葱抜き」などと書き、両親が喜ぶと「うれしかった」と記す。
一方で戦況は悪化し、各地で空襲が激化していた。5月17日には、空襲に備えて防火帯をつくる建物疎開の現場に初めて動員された。「戦地の兵隊さんのことを思って一生懸命働いた」(5月26日)。壊された建物の瓦や木切れを拾い集めた。
6月からは校外の開墾作業にも動員。警戒警報や空襲警報で授業は何度も中断された。幸い5時間目まで受けられた7月26日の日記は「明日も」と願う。「生物でおもしろいことをお話しになった。今日は幸に敵機が来襲しなかった。明日も来襲致しませんやうに」
その頃、市中心部で大規模な第6次建物疎開が始まる。県女1年生は8月6日から土橋地区(現中区)の作業を命じられた。米田さんは4日の日記に「七時二十分集合」と書き入れた。
5日は日曜日。午前4時に起きて野菜の出荷を手伝い、仏壇の掃除や習字をした。6日から「一生懸命働かうと思ふ」と書いた。それが、最後のページになった。
31年後、チエさんは娘が書けなかった6日を手記につづっている。チエさんは午前4時に起床。米田さんの弁当を作っていると本人も目覚めた。「今何時頃と言ったその元気な声が今も耳に残り、頭にこびりついて消えない」
チエさんが野菜を出す市場と米田さんの集合場所が近く、一緒に家を出た。集合場所まで見送った母が帰ろうとすると、娘は追いかけた。
「遅くなるといけないと言って、つないでいた手を離して、30メートルくらい離れた所でまた後を振り返り、手を振って別れたのが最後の生き別れであろうとは、神ならぬ身の知る由もなかったのだ」
原爆を搭載した米軍のB29爆撃機は6日未明、西太平洋のテニアン島から日本に向け飛び立っていた。
(2024年8月5日朝刊掲載)
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