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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <1> 海軍呉調査団の資料

 米軍による原爆投下後、軍や研究者が広島市へ調査に入り、被爆地を撮影した。熱線、爆風による街の壊滅、やけどや放射線障害に苦しむ市民たち…。調査者たちが残した写真には核攻撃がもたらした悲惨な現実が刻まれている。ウクライナに侵攻したロシアによる核使用の懸念が消えない中、ヒロシマの惨禍を多くの人に伝える必要がある。関連資料や遺族の証言と突き合わせ、核使用による被害の実態を考える。

強烈な爆風 壊滅した街

投下直後の惨状あらわ

 欄干が崩れ落ちた相生橋、軌道から大きく外れて止まった路面電車…。呉市の大和ミュージアムには、海軍呉鎮守府が広島に派遣した調査団による写真が並ぶ。米軍の原爆投下2日後の1945年8月8日の撮影。強烈な爆風による被害の様子を収めている。

 写真は、調査団の団長補佐を務めた神津幸直さん(85年に74歳で死去)の遺品。妻の故梅子さんが、調査団の同8日付の極秘報告書とともに24枚を寄贈した。報告書は原爆が使われた可能性をいち早く調査文書として示し、同10日に原爆と結論付ける陸海軍の合同検討会でも参考にされた。

 「父は生前、『調査が役に立ったのは良かった』と話すこともありました。散逸しないように資料を託しました」。義理の息子である呉商工会議所会頭の善三朗さん(81)は力を込める。神津さんが戦後に呉市で創業した中国化薬の会長を務める。

 調査については神津さんが51年につづった手記「原爆の四日間」が詳しい。

 神津さんは、東京帝国大(現東京大)火薬学科を卒業後、呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で火薬兵器の研究を担当。45年8月6日朝は職場に急に「青白い光」が入るのを感じた。立ち上る煙の大きさから、普通の爆発物ではないとの見方が周りに広がった。監督機関の鎮守府から情報収集の指令を受け、同僚が調査に入った。

熱線に強い関心

 翌7日、本格的な調査団を編成。団長は、上官の故三井再男(またお)さんが務めた。三井さんは43年ごろに始まったとされる海軍の原爆開発研究に絡み、実験用ウランの入手に関わっていた。原子力の利用と想像するとの見方を示す一方、先入観は持たずに調べるように命じたという。

 「(中心部で)驚いたのは、あの大廣島が、煙突と鉄筋コンクリートの建物を残して一物もないことであった」(神津さんの手記)。市内を約10地区に分け、各担当者が建物や樹木の倒れた方向や損壊の程度を調べた。神津さんは被爆した陸軍軍人にも話を聞いた。「空一面に硫酸をまいたのだろう」との見方を示されたが、それではとても説明がつかない壊滅ぶりだった。

 調査団は爆心地を「護国神社(現在の市青少年センター辺り)南部」と推定。8日付の報告書は、負傷者が爆心地方向だけにやけどをしていることや、7キロ先でガラス破損が確認されるなどの被害の特異性を伝えた。トルーマン米大統領が原爆投下を16時間後に発表した声明に関わる情報に触れ、その可能性を強く示した。

 写真は三井さんが撮り、報告書の付録としてごく一部の海軍関係者に配られた。神津さんも写真を受け取っていた。黒い部分だけが焼き抜かれた広島駅の時刻表の写真もあり、熱線への強い関心がうかがえる。

見いだせぬ対策

 報告書は、結果的に爆心地もおおむね正確で被害分析の水準が高いとされる。ただ、調査団に参加した故平岡利雄さんの手記によると、未曽有の被害を踏まえた対策を議論した際には部屋が静まり返った。報告書は衣服の露出部を減らすことなどを記したが、「全員有効なる対策のないことを知っているだけに何かうつろな暗然たる気分」だった。

 また、神津さんは手記に「調査隊員は負傷者の姿が目に残っていて、毎夜夢を見た」と心の痛みをつづっている。軍務の調査を優先するため、目の前で苦しむけが人が求める助けに応えられなかったからだ。

 神津さんは生前、調査団の写真について「調査のためのもので、人間の悲惨な状況は写されていない」と家族に話していた。報告書は「爆心ヨリ半径五〇〇米以内、内臓露出セルモノ多数」と記す。写真のフレームの外に、はるかにすさまじい惨状が広がっていた。(編集委員・水川恭輔)

(2022年4月25日朝刊掲載)

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