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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <7> 京都大の健康調査

実態迫る14枚 手元残す

消えぬ傷 現実を後世に

 春を迎え、修学旅行生の姿も目立ってきた原爆資料館(広島市中区)。9月中旬までの企画展「原爆と医療」では、常設展で見ることのできない医学資料をいくつも公開している。京都帝国大(現京都大)の調査で撮られた広島市内の被爆者の写真もその一つだ。

 展示している2枚は原爆投下翌年の1946年9月の撮影。うち1枚は男児とみられる後ろ姿で、耳の後ろ辺りのやけどの痕を写す。写真の台紙に「帽子の形通りに」とメモ書きがあった。帽子に覆われていた部分かどうかで、頭部のやけどの程度に違いがあることを記録したようだ。被爆から1年が過ぎても傷が大きく残る現実を伝える。

 写真は、調査に参加した医師の糸井重幸さん(2007年に88歳で死去)が残していた。生前の手記に、調査に参加した気持ちは、単なる研究目的ではなかったとつづっている。「わが同胞の不慮の災厄に対して何がしかの奉仕をしたかった」

 京大調査班は、広島に拠点を置いた中国軍管区司令部の依頼で編成。内科の故菊池武彦教授たちが主導し、助手の糸井さんも加わった。45年9月初めに広島へ入り、約20キロ離れた大野陸軍病院(現廿日市市)で診療や血液検査を始めた。

症状一様でなく

 だが、同病院は同17日の枕崎台風で土石流に襲われた。調査班員11人が犠牲になり、資料も失われた。それでも、たまたま京都に戻っていて助かった糸井さんたちは牛田国民学校(現東区)などを拠点に被爆者の診療と健康調査を継続。被爆状況や症状を調査票に書き込んだ。49年まで続けた。

 白血球減少などの放射線による急性症状は45年末までに一応収まったとされている。ただ、糸井さんは翌年以降の被爆者の回復具合や傷痕、症状は一様ではなかったと振り返っている。

 「草木が生え、人々も漸次元気を取り戻したのは喜ばしいが、当時なお原爆火傷の無惨なケロイドを残している人や内臓、血液に後遺症を残している人も多くみられた」(手記)。被爆者の写真が撮られた46年8~9月の調査をまとめた報告資料では、ケロイドや、全身倦怠(けんたい)などの症状を挙げ、引き続き調査が必要だと指摘している。

 糸井さんはその後、大阪府内の病院などで医師を務めた。14枚の広島調査時の写真は手元で保管していた。長女の田中京子さん(75)=兵庫県芦屋市=は「父にとって、広島の体験は忘れられないことだったと思います」と話す。

 家族には体験をあまり話さなかったが、手記ではたびたび触れている。91年の手記「もしあの光景が保存されていたら」は、被爆地の壊滅した光景、被害実態に触れて「核戦争反対、原爆許すまじの決意」を起こす重要性を訴えている。

「過去ではない」

 死去から9年後の2016年、田中さんたち遺族は資料館に写真を託した。その写真が展示されている企画展は、ウクライナに侵攻したロシアの核使用の懸念が高まる中で開かれている。「核兵器は私たちにとって決して過去の問題ではない」。田中さんは父の体験や写真に思いをはせる。

 広島への原爆投下後、被害調査に伴って残された原爆写真。軍務として被爆直後から市内一円の惨状が写され、医学や地学といった専門的な視線から影響を見つめている。調査ゆえに、家族や友人間ならばカメラを向けるのをためらわれるような生々しい傷や症状も撮影された。核兵器の非人道性を裏付けている。

 写真に残る惨状を決して忘れてはならない。写真には写っていない、その背後で起きていたむごたらしい現実にも思いをはせたい。二度と繰り返さないために、私たちは一枚一枚の「証言」に向き合い続けることが必要だ。(編集委員・水川恭輔、明知隼二)

 連載「ヒロシマの空白 証しを残す」の「被害調査写真」編は終わります。

(2022年5月1日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <1> 海軍呉調査団の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <2> 医学者の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <3> 物理学者のまなざし

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <4> 地学班の記録

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <5> 地震学者

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <6> 広島赤十字病院

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