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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <6> 広島赤十字病院

救護拠点 記録した被害

葛藤抱え 患者を収める

 原爆の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。米国による原爆投下の約2カ月後の1945年10月、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の患者の姿を収めた写真だ。同病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が医師の指示の下、手術前後の医学的な記録として撮影していた。

院内で見た惨状

 爆心地から約1・5キロの赤十字病院は爆風で窓が吹き飛び、建物の内外に大きな被害を受けたが、鉄筋3階建ての本館は焼失を免れた。医師や看護師、入院患者たちから死者56人、重軽傷者364人を出しながら、被爆直後から押し寄せた負傷者の救護拠点となった。

 黒石さんは前日から広島県深安郡(現福山市)にあった妻の実家を訪れていた。広島壊滅の知らせを受け45年8月7日早朝、広島に向かうが、山陽線は不通。福塩線と芸備線を乗り継ぎ病院に着いたのは午後2時半ごろだったという。

 「病院の庭の芝ふの上は、歩く余地のないくらいいっぱいの病人で、広場も院内もギッシリでした。無傷のわたしは人の血でも塗って包帯でも巻かなければ悪いように思ったほどひどい状態でした」。黒石さんは61年刊行の「広島原爆医療史」収録の座談会で惨状をそう語っている。

 「よく病院の惨状は聞かされました」。黒石さんの長男正樹さん(73)=廿日市市=は、そう振り返る。叔母も看護学生として同病院の寄宿舎で被爆し、数日後から救護や遺体の火葬に当たった。黒石さんと同じ光景を見ていた。母も結婚までは同病院に看護師として勤めた経験があり、集まればやはり話題に上った。

 黒石さんの撮影は、重藤文夫副院長(当時)たちの指示だった。同僚の病理検査技手だった故斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原爆の被害を記録した。

資料保存にも力

 病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「どうも良心がとがめましてね、とれなかったですよ。重藤先生からもいろいろとっておけといわれましたけど」(座談会での黒石さんの発言)。葛藤を抱えながらも医学的な記録として50枚近くを撮影したという。このうち被爆後間もない45年末までの写真としては原爆資料館(中区)が4枚を保管している。

 同病院には56年、被爆者医療の拠点として広島原爆病院が併設された(88年に統合)。黒石さんは77年に定年退職するまで、斎藤さんとともに被爆関連の資料や標本の保存にも尽力。退職後は、親しかった元中国新聞社カメラマンの故松重美人さんたちによる「広島原爆被災撮影者の会」にも積極的に関わり、写真記録の保存にも努めた。

 晩年には、改築のため解体を控えた病院の保存も訴えていた。「後世に記録を残すのは、被爆の現実を目撃した一市民としての素朴な願いだったのでしょう」と正樹さん。病院の本館は93年に解体されたが、爆風でゆがんだ窓枠はモニュメントとして保存され、被爆建物を保存する市の補助制度の適用第1号となった。

 今、核兵器保有国であるロシアのウクライナ侵攻の報道に接し、あらためて父の姿を思い出す。「人間は起きたことを忘れてしまう。だからこそ、広島から人間の良心に訴え続けないといけない。それが記録を残すことの意味ではないでしょうか」。記録を受け継ぐ世代として何ができるのか、考え続けている。(明知隼二)

(2022年4月30日朝刊掲載)

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