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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <2> 医学者の資料

大やけど 非人道性映す

放射線影響「死の斑点」

 「極秘」「船舶軍医部」―。被爆者の健診などに取り組む広島原爆障害対策協議会(原対協、広島市中区)には、表紙に二つの印が押された古びた写真集がある。表題は、市戦災記録写真。宇品町(現南区)にあった陸軍船舶司令部の写真班員が被爆直後に撮った52枚を収める。

残虐さありあり

 黄ばんだ台紙をめくると、負傷者の惨状が目に飛び込んでくる。第一国民学校(同)の救護所で撮影された子どもは手と足に大やけどを負い、その痛々しい姿に目を覆いたくなる。原爆の残虐さ、非人道性がありありと記録されている。

 写真集は、放射線医学の専門家だった御園生(みそのお)圭輔さん(1995年に82歳で死去)が73年、原対協に寄贈した。戦時中は東京の陸軍軍医学校の教官を務め、被爆後の広島に2度にわたり調査に入った。写真集は最初の調査の際に得たという。45年8月7~17日ごろの撮影とみられる。

 御園生さんは広島市で79年、当時の調査について講演した。医学者の目で被爆した人たちの症状の変化を振り返っている。

 最初の調査は広島への原爆投下から8日後の8月14日から6日間。放射線の専門家として陸軍省の調査班に加わった。たくさんの負傷者が運ばれていた似島(現南区)で遺骨を調べると、「相当の放射能」(講演録)が認められた。

 後に放射線の影響と分かる下痢、血便が見られたが、この時期の被爆者の症状の中心は外傷、やけどだったとする。傷のひどい人は次々と息を引き取り、「河原、似島は火葬の火と煙が絶えなかった」。

 それが同省の再調査班で8月30日に2度目の調査に入ると、様相が変わっていた。「顔面蒼白(そうはく)、歯齦(しぎん)出血、皮下点状出血、脱毛を主徴とした原爆症の恐怖が街に漲(みなぎ)っていた」。被爆者がけがの有無にかかわらず、こうした症状に苦しんでいた。今は原爆の放射線障害の急性症状と知られている。

 再調査班には、東京帝国大(現東京大)医学部教授だった都築正男さん(61年に68歳で死去)も参加。広島第一陸軍病院宇品分院(現南区)を調査の拠点とした。都築教授らの求めを受け、陸軍船舶練習部(同)に所属していた木村権一さん(73年に68歳で死去)は同分院に入院していた被爆者を撮影した。

 そのうちの1枚は原爆資料館が「死の斑点が出た兵士」として館内に展示している。写真は45年9月3日に撮られ、被写体の男性はその日のうちに亡くなった。当時の調査報告書に男性の経過が記されている。

別の患者も死去

 当時21歳。爆心地から約1キロの木造家屋で被爆。8月18日に脱毛、同29日に歯茎から出血した。白血球は正常値よりも大幅に減少。血小板の減少、機能低下に関わる皮下出血が「斑点」として現れていた。報告書には、同様の症状に襲われて9月初めに死去した患者がほかにも載っている。

 現在では、原爆の放射線で骨髄などの造血機能が破壊され、白血球と血小板の減少などの影響が出たと知られている。広島大に所蔵されている被爆者の病理標本から、特に被爆後3~4週間目の死亡者に骨髄が血液を正常に作れない状態が目立つと確認されている。「死の斑点が出た兵士」が亡くなった時期だ。

 放射線の急性症状が一応収まったのは45年末。市が9年前に刊行した原爆犠牲者の実数調査の報告書によると、45年8月末までの犠牲者数は名前が分かった人だけでも7万9989人、同じく9月1日~12月末も8981人に上った。

 写真に写る痛ましい姿の負傷者や患者。被爆後も原爆がたくさんの人間をどのように苦しめ、命を奪ったのかを今に伝える。(編集委員・水川恭輔)

(2022年4月26日朝刊掲載)

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