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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <3> 物理学者のまなざし

廃虚の爆心地 衝撃克明

核兵器禁止「人類のため」

 1945年8月30日、陸軍省の派遣で広島市に入った広島戦災再調査班には、医学者に加え、残留放射線を調べる専門家がいた。その一人が原子核物理学者の山崎文男さん(81年に74歳で死去)。当時は東京に本部があった理化学研究所(理研)に所属していた。

 山崎さんは戦時中から事細かに日記をつけていた。原爆資料館に調査当時の日記の複写が残っている。

東京と違う惨状

 山崎さんは広島駅に着いた30日、倒壊、半壊した家屋に衝撃を受けている。「屋根などは巨人が踏みつぶして歩いた感をもたせる」(同日の日記)。中心部を回った9月1日は「東京の焼跡とひどく違ふのはどの石造も破壊され全く大地震、大暴風に火災に見舞はれた感だ」。

 猛烈な爆風、熱線で爆心地から約2キロ圏は全壊全焼していた。山崎さんは同6日までの滞在期間に被害状況を撮影。爆心地となった細工町(現中区)の廃虚も写した。同町一帯の被爆後最も早い写真とされ、枕崎台風(同17日)の前の状態が分かる貴重な一枚だ。

 山崎さんは当時38歳で、日本の原子物理学研究の中心だった故仁科芳雄さんの研究室に所属。この研究室は戦時中、陸軍から委託を受けて原爆の開発研究に携わっていた。製造に必要なウラン235の濃縮を試みる熱拡散塔を44年に理研内に造り、実験していた。

 山崎さんは塔で作業されたウランを調べ、濃縮が成功したかどうかの判定に関わっていた。だが、成功はせず、45年4月には塔が空襲で焼失。5月10日の日記には、最後に処理されたウランも失敗だったと記す。

 その約3カ月後の8月6日、米国が広島に原爆を投下。仁科さんは専門家として2日後の8日に広島入りした大本営調査団に加わった。山崎さんは理研で、広島で取られた土の放射線測定に携わっていた。

 山崎さんは広島での調査で、残留放射線を測る検電器を車に載せて市内を走り、変化を調べた。占領期が終わった後の53年発表の山崎さんの論文によると、市西部の高須、古江地区で強度が増え、最大だった古江東部は、爆心地付近と同程度が測定された。同地区の雨どいにたまった土砂を調べると、特に強い放射線が認められた。

 市西部では、原爆投下後に「黒い雨」が降っていた。山崎さんの調査は雨に放射性降下物が含まれたことの基礎データとして、今もたびたび参照される。

 山崎さんは現地調査を事細かにノートに記録した。生薬学の研究者で、広島大名誉教授の長男和男さん(82)=神奈川県鎌倉市=は「何でも細かく記載し、実験データを大切にするという科学者の基礎に徹している」と感心する。ノートと日記の複写を資料館に寄贈している。

戦後も研究に力

 山崎さんは戦後も理研で放射線に関わる研究を続けた。「一貫して原子力の平和利用を訴えていた」と和男さん。核兵器については強く禁止を訴えた。

 54年の雑誌への寄稿「放射能の功罪」に思いがつづられている。この年、米国のビキニ環礁での水爆実験でマグロ漁船の第五福竜丸が被曝(ひばく)し、山崎さんはその放射線測定に関わった。

 寄稿では、医療や産業面で利用される放射線の使い道を解説する一方、水爆の放射性降下物「死の灰」の恐怖を強調。「原子兵器の禁止こそ今日人類のために最も急がなければならぬとりきめと思います」とし、被爆国の日本が訴える務めを説いた。

 昨年、核兵器禁止条約が発効した。だが、核兵器保有国は参加していない。日本政府も背を向ける。自国の原爆開発研究に関わり、米軍の原爆で核兵器の恐ろしさを目の当たりにした山崎さんの訴えがかなう道筋はまだ見えない。(編集委員・水川恭輔)

(2022年4月27日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <1> 海軍呉調査団の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <2> 医学者の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <4> 地学班の記録

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <5> 地震学者

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <6> 広島赤十字病院

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <7> 京都大の健康調査

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