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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <4> 地学班の記録

溶けた瓦や岩 語る熱線

爆心の塀 表札だけ残る

 上部が安山岩(あんざんがん)で造られた塀は一部が溶けてガラス化し、花こう岩の欄干は表面が剝離している。東京都文京区の東京大総合研究博物館には、原爆の猛烈な熱線で損傷した広島市内の岩石を撮った写真がいくつも所蔵されている。

 撮影者は、地質学者で同大教授を務めた渡辺武男さん(1986年に79歳で死去)だ。文部省が広島と長崎に原爆が投下された翌月の45年9月に学術研究会議に設けた原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加。委員会の中の地学班を率い、熱線による岩石の影響や被害範囲などを分析した。

 渡辺さんは同10月11~13日に広島市で調査。被爆した瓦や岩石の標本を集め、写真を撮った。「瓦トケタ跡アリ」などとフィールドノートに記録した。

溶融限界を分析

 短時間で超高温の熱線を受けた瓦は、火災と違って表面の厚さ0・数ミリだけが溶け、泡立っているように見える。渡辺さんは、熱線でどこまで遠くの瓦が溶けたのかを示す「溶融限界」を分析。占領期を終えた53年に出された同委員会の報告書で、広島では爆心地から600メートルだったとした。

3700度まで加熱か

 同博物館には、渡辺さんが広島と長崎で収集した標本87点が残っている。「渡辺先生が標本にきちんとしたデータを残し、標本室で保存されていたため劣化もない。被爆した石や瓦をいわば新鮮な状態で調べられるんです」。田賀井篤平・東京大名誉教授(78)=鉱物学=は近年、標本や関連資料を分析してきた。

 田賀井さんによると、渡辺さんのノートや広島大所蔵の被爆瓦などを調べた結果、広島の溶融限界は爆心地から850メートルの旧県庁だったと判断できると分かった。また、標本の実験から溶融限界の瓦は表面温度が1280度に達していたと分析。それを基に、爆心地の熱線を計算すると、爆心地には瓦を約3700度まで加熱するエネルギーの熱線が短時間降り注いだと考えられるという。

 原爆投下当日、それほどの熱線が市民に容赦なく襲いかかった。渡辺さんの写真を詳しく見ると、その悲惨さが一層浮かび上がる。

 渡辺さんは、安山岩が黒くガラス化した塀を旧細工町(現中区)にあった清(せい)病院の跡で撮っている。爆心地となった島病院の斜め向かい。塀を正面から撮った写真には「患者通用門」の看板と「清茂基」の表札が見える。

 名前のある清茂基さんは泌尿器科の医師で、清病院を経営していた。記者が清さんの孫淳二さん(86)=大阪府箕面市=に写真を見てもらうと、「初めて見ました」と驚いた。「表札があるのは、自宅の門の柱でした」と懐かしそうに続けた。

 自宅は病院の裏にあった。淳二さんも戦前、父の仕事で関西に移る5歳ごろまで祖父の清さんと暮らしていた。よく買いに行った近くの回転焼き屋、元安川でのボート遊び…。「広島での楽しかった思い出は今も鮮明に覚えています」

 だが8月6日、広島に住み続けていた清さんは被爆。病院の診察室跡で遺骨が見つかった。63歳だった。広島県立医学専門学校(現広島大医学部)1年だった長男も犠牲になった。

 清さんたちを失い、病院は再起できなかった。淳二さんは被爆翌年ごろに家族と病院の跡を訪れたが、その後は広島市に行ったことはないという。「原爆がなければ私の人生も違っていた。この年になっても、そう思います」

 東京大の博物館には写真と併せ、清病院の溶けた塀と瓦の標本が残る。熱線だけでなく、奪われた命もまた、刻まれている。(編集委員・水川恭輔)

(2022年4月28日朝刊掲載)

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