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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <5> 地震学者

母校壊滅 多くは語らず

学友の手記 生涯手元に

 焼け落ちた旧制広島一中(現国泰寺高、広島市中区)の講堂跡を写した写真がある。東京帝国大(現東京大)地震研究所の技師だった金井清さん(2008年に100歳で死去)たちが1945年11月、被害調査の一環で撮影した。金井さんにとって、広島一中は20年前に巣立った母校でもあった。

 金井さんは広島一中を25年に卒業し、広島高等工業学校(現広島大工学部)に進んだ。卒業後は同校で助手を務めたが、東京帝大にいた同級生から「地震研の教授が助手を求めている」と聞いて研究室を訪問。数学の能力を買われ仕事に就いた。31年のことだった。

 45年8月6日の米軍による広島と長崎への原爆投下を受け、文部省(当時)は9月、各分野の研究者を集めた調査研究特別委員会を設置した。金井さんは地震研の技師として助手の前田敏雄さんと広島入りする。

筆舌に尽し難し

 前田さんが記した「金井研究室日誌」(原爆資料館蔵)によれば、2人は10月18日朝、列車で広島駅に到着。長崎の調査や帰京を挟みながら11月8日まで広島で調査を重ね、約80枚の写真を撮影した。建物の熱線跡から爆心を推定する調査の成果は、占領明けの53年に刊行された報告集に写真7枚とともに掲載された。

 広島一中は調査終盤の11月6日に撮影している。爆心地から約900メートルで、全ての建物が全壊、全焼。市中の建物疎開作業に動員されていた1年生を中心に生徒353人、教職員16人の犠牲を出した。

 「筆舌に尽(つく)し難し」。調査で見た惨状をほとんど語らなかった金井さんは、米寿の回顧録でわずかにそう書き残している。戦後は地震工学の研究に尽くし、地震学会会長や日本大副総長を務め、2008年に亡くなった。

 「先生が生前、原爆関連の資料を気にしていたことは奥さまから聞いていた」。晩年に交流を深めた地震研元助教授の工藤一嘉さん(78)=東京=は16年、金井さんの遺族から自宅に残された未整理の資料を託された。段ボール8箱の資料の中には確かに、広島の調査記録が含まれていた。

 被害調査のメモや研究報告の草稿などをひもとく中で、工藤さんは「原子爆弾空襲の体験」と題した手書き原稿を見つけた。金井さんの筆跡ではない。調べてみると、広島一中の同級生で東京大医学部教授を務めた木本誠二さん(1995年に87歳で死去)の体験談と分かった。牛田町(現東区)で被爆した同郷の木本さんから手記を借り、助手に筆写させたようだった。

 「爆心より一定範囲に亘(わた)って有(あ)らゆる生物を殺戮(さつりく)し枯死せしめる本爆弾の威力は真に想像に絶するものがある」。手記は全編、木本さんの医師らしい冷静な観察に貫かれている。母校の被害には「某中学一年三百人中生き残ったのは五、六名のみ」と触れていた。

あくまでも研究

 工藤さんは、金井さんから原爆に関する話を聞くことはなかった。「先生は被害調査も、あくまで研究と考えていた」とみる。それだけに、金井さんが友人の手記を手元に残し続けていたのは不思議にも映った。「今となっては想像するほかないが、中学からの学友だった木本先生とは原爆についても話していたのではないか」

 工藤さんは18年11月、整理を終えた資料を原爆資料館に寄せた。「原爆の被害調査もまた金井先生と前田さんの貴重な業績。保存してもらえて安堵(あんど)している」。母校の壊滅を目の当たりにした一人の地震学者。残した写真やフィルム、メモは計255点を数える。(明知隼二)

(2022年4月29日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <1> 海軍呉調査団の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <2> 医学者の資料

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <3> 物理学者のまなざし

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <4> 地学班の記録

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <6> 広島赤十字病院

ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真 <7> 京都大の健康調査

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