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連載・特集

緑地帯 ちひろとヒロシマ 竹迫祐子 <3>

 激しく生々しい筆致で原爆投下直後の広島を描いた「原爆の図」。制作者の丸木位里・俊夫妻といわさきちひろのつながりは深い。

 1946年5月、疎開先の松本(長野県)から単身で上京した日、ちひろは、「人民新聞」の編集長の紹介で、豊島区の丸木夫妻のアトリエに身を寄せた。初対面の宿泊者を、夫妻は驚きもせず受け入れたという。

 以後、神田の叔母の家に落ち着いてからも、ちひろは足しげく丸木アトリエに通い、若者たちに交じって熱心に絵を学んだ。早朝デッサン会では、交代で裸体デッサンのモデルになるのが慣例で、シャイなちひろも覚悟を決めてモデルを務めた。俊が描いたちひろの裸婦像が、今日、埼玉県の「原爆の図丸木美術館」に残る。豪胆な面を持つ俊と、性格が正反対のちひろはかえって気が合った。

 ちひろがアトリエに通っていた時期、夫妻は「原爆の図」を描くことを考えていた。ちひろは習作段階で目にしていたかもしれない。「原爆の図 第一部 幽霊」が発表されたのは50年。雑誌「アサヒグラフ」の52年8月6日号が「原爆被害の初公開」として写真を掲載する前だから、「原爆の図」は発表当時、大きなインパクトで見る人々に迫っただろう。

 「私には、丸木さんのような原爆の絵は描けない」。ヒロシマをテーマにした絵本「わたしがちいさかったときに」が企画された時、そう語ったちひろの心情も理解できる。ちひろには被爆の惨状そのままに、生々しく描く資質はなかった。(ちひろ美術館主席学芸員=長野県)

(2018年5月24日朝刊掲載)

緑地帯 ちひろとヒロシマ 竹迫祐子 <1>

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