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連載・特集

緑地帯 ちひろとヒロシマ 竹迫祐子 <6>

 いわさきちひろ自身、戦争のただ中を生きた人だった。1939年6月~41年3月、最初の夫の赴任地、中国の大連に暮らした。44年5月から初夏にかけては、旧満州(中国東北部)に渡った。日本が実質支配した中国で何を見てきたのだろうか。人が人を差別し、搾取するさま、残虐行為の数々を目の当たりにしたことは想像に難くない。

 旧満州から帰国した翌年の45年5月、東京の山の手一帯をみまった空襲で家を焼かれ、ちひろは再び惨状を目の当たりにした。

 後年、ちひろがヒロシマをテーマにした絵本「わたしがちいさかったときに」を描く時に、手元に原爆の資料や写真が届いた。ベトナム人作家が物語を書いた「母さんはおるす」や、その後の「戦火のなかの子どもたち」を描く時には、ベトナム戦争の新聞記事や写真集が画室に届けられた。

 被爆の写真もベトナムの写真集も、ちひろは長く見続けることができず、閉じてしまう。広島の被爆の体験記「原爆の子」を読むと、涙で読み続けられない。そんな性質の画家は、中国で目にした光景や空襲体験を直接語ることはなかったが、それらを重ねて、広島、長崎、そしてベトナムをリアリティーを持って描いた。「戦火のなかの子どもたち」に、親を捜して彷徨(さまよ)う姉妹を、防空壕(ごう)の中から捉えた場面がある。画家の記憶に残る情景ではないか。

 絵描きは見えないものを描く。ちひろの戦争画は、戦禍にさらされた子どもを描き、内面を想像させて戦争の本質を浮き上がらせた。(ちひろ美術館主席学芸員=長野県)

(2018年5月29日朝刊掲載)

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