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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

父は養蜂家 自宅に店舗

  ≪1939年、現在の広島市西区天満町で養蜂家の父忠一さんと母奈津枝さんの間に生まれた≫

 おやじは転地養蜂家で、各地を転々としていた。自宅には店舗を構え、採れた蜂蜜を売っていた。戦時中、砂糖は輸入できなくなっていて不足がち。蜂蜜を練り込んだ自家製のカステラや棒付きのアイスケーキも人気で、店先には行列ができていた。戦前は結構もうかっていたと思うよ。おやじは犬が好きで、シェパードを飼っていた。客が来ると「ウッフ」と鳴いて教えてくれたなあ。

 ≪3兄弟の次男。わんぱくな幼少期だった≫

 2歳上の兄(裕之さん)や4歳下の弟(晴将さん)、近所の友達と駆け回っていた。実家の向かいにあった天満宮を「てんじんさん」と呼んでいて、遊び場になっていた。大きな牛の銅像があったことを覚えている。近所の昆布倉庫に入って、かくれんぼをすることもあった。今だったら考えられないね。

 川遊びをすることも多かった。あるとき、ちょっと高い石垣から天満川のほとりに飛び降りたことがあった。すると、尻から落ちて泡を吹いてしまった。元安橋のたもとに親戚のおばさんが住んでいて、元安川にもよく行った。原爆ドームとなる広島県産業奨励館のことはあまり覚えていないが、小さなカニを捕まえたり、水遊びをしたり。「おーお、おーお」と声を上げながらオールをこぐ学生の姿も見た。

 天満川に架かる鉄橋に板を並べて、その上を戦車が渡っていったのを覚えている。広島の町にも戦車があったんじゃね。兵隊もいた。自宅前で陸軍の行進があったときには、防火水槽の木のふたの上に立って「兵隊さん万歳」と声を上げた。

 ≪徐々に戦争の足音が、身の回りにも迫ってきていた≫

 44年の5月、おやじが兵隊として上海へ行った。年が明けると、焼夷(しょうい)弾の延焼が広がってはいけないと、天満町を離れて己斐にあった山小屋で暮らすようになった。遠くの空から変な音がひっきりなしに聞こえ、よく見ると小さく飛行機が見えた。当時はあれが何なのよく分からなかったが、後になって呉が米軍に攻撃されたんだと知った。

(2022年1月19日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

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