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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

義父に誘われ転職決断

 結婚式にはお世話になった人がたくさん集まってくれて楽しかったな。徳山曹達(現トクヤマ)で「仏の高原」と呼ばれていた工務部長の高原正光さんは仲人になってくれたし、修道中で担任だった清水範一先生も来てくれた。ウエディングケーキがとても大きかった。当時はみんな、派手にしていたみたいですよ。

  ≪1966年11月、明星ゴム工業(現ミカサ)の仲田国市社長の長女国恵さんと、広島市中区の広島グランドホテルで式を挙げた≫

 働いてばかりだったけど家内が家を守ってくれた。長男の憲一と次男の祐二が小さい頃は近所に同世代の子どもがたくさんいた。うちに来て、月光仮面ごっことかで大騒ぎしていたときも妻は面倒見が良かったからね。本当に感謝している。

 ≪出会いは大学3年の合同ハイキング。己斐小から修道高までの同級生で、大親友の栄花吉郎さんがキューピッド役になってくれた≫

 栄花の妹で、広島女学院大短期大学部に通っていた豊子さんと話していて「合ハイに行こう」となった。宮島近くの絵の島で運動会みたいなことをやって、そこにいたのが豊子さんの同級生の妻だった。純粋なところに引かれてね。その後、栄花に「おまえ、あいつ(国恵さん)が好きなんじゃないか」と言われて「うん」と答えたら、その話を妻に伝えていたみたい。それから仲良くなって付き合うことになった。

 徳山曹達に入ってからは遠距離恋愛だったけど、週末は岩徳線に乗って広島に帰っていた。大阪に移ってからも文通を続けた。結婚しようと、あいさつに行ったのが仲田社長との初対面だった。

 ≪65年10月、仲田さんから転職を打診され、同年に徳山曹達を退職した≫

 結婚の許可をもらうと、社長から「うちに入ってこんか」と誘われた。当時、明星ゴムにはあまり人がいなくてね。徳山曹達を辞めようとは思っておらず、徳山市(現周南市)に暮らすつもりで土地も手当てしていた。明星ゴムのイメージは、五日市の田んぼに大きな看板があったな、というくらい。悩んだが、「お願いします」と応じました。いろんなことができる中小企業は自分に合っているかなと。

(2022年1月25日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

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