×

連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

徳山曹達で現場に通う

 大学時代も友達に恵まれてね。いつもソフトボールをしていた。だけど工学部だったから男子学生ばかり。他の学部や他大学との合同ハイキングに行ったり、いとこのダンス教室でルンバやワルツを習ったりもした。教授が厳しくて、授業をサボって遠出することもあったな。

 学生生活が後半になると、就職先を考える時期になった。3年の終わり、いろんな企業の工場を見学するために上京した。目黒から川崎に行こうとしたが、乗り換えを間違え、列車はすし詰め。こんな通勤を毎日するのはつらい。東京で勤めるのは無理じゃ。穏やかな瀬戸内海沿岸で働きたいと思ったんだ。

 工学部からはマツダや三菱重工、日立に就職していた。神戸の繊維会社から夕食に誘われ、初めてマグロの刺し身を食べたこともあった。そこには行かなかったけどね。

 
≪1962年、広島大を卒業し、徳山曹達(現トクヤマ)で社会人生活をスタートさせた≫


 徳山曹達は派手な会社ではなかったけど、大学の先輩が多いこともあって就職を決めた。入社してからは独身寮生活。広島を離れて初めての1人暮らしだったが、寮長の面倒見がよくて楽しかった。配属は工務部第1計画工事課。生コンクリート工場の建設を計画する仕事だった。勤務は午前8時から午後5時まで。寮ではすることがないのでサッカー部をつくろうということになって、いつもボールを追い掛けていた。週末は上司の家で一緒に食事をすることもあった。

 本社で2年ほど勤務すると、大阪へ異動になった。大東市の工場立ち上げを任された。大阪市内の旅館を借り、バスで現場に通った。鉄骨の発注や現場監督、試運転までやった。昼は丼飯とかつお節をいっぱいかけた豆腐1丁、それにみそ汁。おいしかったな。この頃は64年の東京五輪のまっただ中。ラジオから熱気を感じていた。

 
≪徳山曹達での日々がその後も生きた≫


 情報共有がしっかりした組織だった。部署が違ってもやりとりがあったし、海外視察の報告会に入社間もない若手も参加できた。そういったことの大切さが、知らず知らずのうちに身に付いていたね。

(2022年1月22日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

年別アーカイブ