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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

国内生産が行き詰まる

  ≪「名物社長」と言われた仲田国市さんの下で、明星ゴム工業(現ミカサ)は世界的なブランドへ駆け上がった。特にバレーボールは1969年に初めて1社で国際大会の試合球を担う権利を獲得し、80年のモスクワ五輪以降は全ての大会で公式試合球を独占している≫

 義父の仲田国市という人間はワンマンで、「とにかく材料のいいものを使え」と言い続けていた。そのおかげで、ミカサのボールの耐久性は世界で一番だと思う。

 ≪しかし、世界をマーケットに拡大を続けた明星ゴム工業に陰りが見え始める。85年のプラザ合意で急速に円高が進み、国内で造り輸出するビジネスは大きな影響を受けた≫

 1ドル360円の時から海外に売り出していたが、変動相場制となり円が高くなっていた。そこにプラザ合意。急速に円高が進み、90年代には1ドル80円台になった。ドルで売って円に替えたら、材料費も回収できないくらいに採算が悪くなる。売れば売るほど赤字が増える状態。100億円を超えていたボールの売上高は90億、80億と下がり、赤字になった。国内販売が主力だった工業用品はなんとか持ちこたえていたが、「このままでは会社を続けられない」という雰囲気が社内に漂った。

 ボールの国内生産には限界が来ていた。海外に工場を造ればよかったが、当時は全て自社でやるという方針だった。社長には「自分の目の前で仕事をさせないとしっかりと働かない。自分の目の届く範囲で仕事をさせたい」という考えが根強くてね。海外生産の話は進まなかった。そんな状態が何年か続いた。今までで一番、経営が大きな打撃を受けていた時期。会社の雰囲気は悪く、暗くなっていた。社長は口数も少なく、社長室にこもっていた。

 ≪96年に仲田社長が急逝。円高の影響が続く中、2003年までに藤倉進さん、潮津善治郎さん、寺本文俊さんが代わる代わるトップを務めた≫

 00年に社外から社長になった潮津さんの功績は大きい。社名を明星ゴム工業からミカサに変え、合理化の一環でタイに初の海外工場を建てることを決めた。社内の人間ではなかなか進められなかっただろう。

(2022年1月28日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

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