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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

山の防空壕に逃げ込む

  ≪1945年8月6日、広島に原爆が投下された。爆心地から3キロの己斐の山にも熱線が達した≫

 警報が鳴り、一緒に住んでいた祖母、兄弟3人と空を見上げた。銀色にきらきら輝く3機の飛行機が青空に見えると突然、目の前が暗い黄色に染まった。兄が「防空壕(ごう)に入ろう」と言って中に入り戸を閉めた。

 「ドン」という音がして少しすると、風が吹いて防空壕の砂がぽろぽろと落ちてきた。住んでいた小屋に目を向けるとビワの実を包んでいた古新聞が燃えていた。防空壕から小屋までは目と鼻の先。熱線がすぐそこまで来ていて、外にいたらどうなっていたか分からない。

 近所の人と一緒に山の奥へ足早に向かい、山小屋の周りで休んでいると雨が降ってきた。灰色に薄いピンクが混じったような色だった。「黒い雨」が降ったんだ。

 己斐小の裏門前を通った時、臭いが変で塀から中をのぞくと、白い煙が上がっていた。後から分かったが、校庭に穴を掘って亡くなった人を焼いていた。広い校庭だったから相当な数だっただろう。

 ≪爆心地から1・2キロの天満町にいた母奈津枝さんと、上海にいた父忠一さんも無事だった≫

 親戚の葬式のため、母は前日から天満町の自宅に泊まっていた。原爆が落ちた時は離れにあるトイレにいたみたい。爆風で倒壊したが、一条の光を頼りにはい出たと聞いた。辺りを見渡すと、どこも平面になっていて、どちらが己斐の方向か分からないままさまよったようだ。

 翌年2月ごろ、防空壕の近くで遊んでいると「帰ってきたぞ」と声が聞こえた。軍服姿のおやじが小走りで近づいてきた。戦友1人も一緒だった。戦争でたくさんの人が亡くなった。国内にいたらおやじも助かっていたか分からない。家族みんなが無事だったのは本当に運が良かった。

 ミカサに入り、海外の人に原爆の話をする機会が何度かあった。いろんな反応があるが、大勢の民間人が犠牲になったことがあまり伝わっていないと感じることがある。爆風も熱線も強烈で、焼夷(しょうい)弾とは違う。遠くにいてもやけどをするし、放射能がどんな物かも分からない。そんな状況だったんだから。

(2022年1月20日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

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