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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

五輪ブーム 増産に沸く

 明星ゴム工業(現ミカサ)に入社したのは1966年。「一番を狙え」―。仲田国市社長がよく口にしていた。会社を大きくしたカリスマだったけど、いわゆるワンマン社長だった。大勢が会社を去り、同業のモルテンに移る人も多かった。中小企業の明星ゴムはいろんな仕事ができるかなと思って入ったが、本当に何でもやった。徳山曹達は業務が細分化されていたから全然違ったね。配属は技術部で、工場の機械化や新製品の開発、ボールの改造などがメインのはずだったのに、工場を増改築する時には現場監督だってやったんだから。

  ≪東京五輪を契機にバレーボールブームが到来。多忙な日々を送った≫

 東京五輪で「東洋の魔女」と言われた女子バレーの日本代表が優勝して、女性のバレー熱がようけ上がっていた。テレビドラマの「サインはV」も人気で、どんどんボールが売れていった。作っては売ってのイケイケドンドンという状態。朝8時に出社して午後9時までの残業続き。土曜も働いた。牛乳とパン、大きな鍋に入った豚汁が振る舞われていたなあ。当時は「肉のますゐ」が横川駅の近くにあって、仕事の合間にみんなで行った。2食分頼んで腹を膨らませ、会社に戻っていたよ。

 パートの人は午前10時に来て午後3時までが基本だったけど、お金を出すから午後5時まで残業してもらった。その分、慰安旅行も一緒に行って和気あいあいと過ごしていたと思う。慰安旅行はモルテンが先にやっていて、こっちもやろうと始めた。仲田社長が「今度はハワイに行くぞ」なんて言って従業員を鼓舞してたね。

 ≪ミカサを世界的なボールメーカーに成長させた仲田さんの姿勢を学んだ期間でもあった≫

 入社して数年くらいまで会社はマツダ向けのゴム製品もやっていたけど、仲田社長が下請けをやめた。「世界で一番を目指すなら自社で全部やろう」と。下請けの仕事をもっと増やしていたら、今よりも良い状況になっていたかもしれない。けど値段を決められないし、つらさもある。自社製品で頑張ったから会社は大きくなれた。その信念は間違っていなかったと思う。

(2022年1月26日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

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