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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <4> 中学時代

「現地現物」の精神学ぶ

 砂糖の甘さは、なめてみないと分からない―。大事にしている「現地現物」の考え方に目覚めたのは、中学に入ってからだ。

  ≪己斐小を卒業後、中学高校を修道で過ごした。中学1~3年の担任だった清水範一先生の教育方針が「現場を知る」だった≫

 清水先生は、教科書に加えてガリ版で刷った独自の教材を使って授業をしていた。国語の担当だったが、歌や映画のことも教わった。校外に繰り出す機会が他のクラスよりも多くてね。鳥取県の大山や、広島、島根の県境にある大佐山など、いろんな所に行った。宮島ではクラスメートが体調を崩して病院に駆け込んだこともあったな。長野県の白馬村に行こうという話も出たけど、さすがに遠すぎたのだろう。学校から許可が出なかったみたいだ。

 中学1年のとき、宇品港から貸し切りの船で松山市に行き、夏目漱石や正岡子規ゆかりの地を巡った。教科書に「坊っちゃん」が載っていたことも手伝って漱石の本を読みたくなり、自宅近くで下宿していた広島大教育学部の学生から全集を借りて読みあさっていた。当時はちゃんと中身を分かっていなかったけど、読書の楽しさや大切さに気付いたのはこの頃だと思う。

 ミカサの社長になってタイの工場に行ったとき、芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」を引き合いに「利己主義はいけない。助け合わないとうまくいかない」という話を社員にした。本から学ぶことはたくさんある。

 ≪広島大に進学。中学、高校、大学と兄弟3人そろって同じ学校に通った≫

 おやじは学校で勉強をしたかったが小学校に行けなかったみたいだ。そういう事情もあって「しっかりと教育を受けないといけない」との思いで、兄弟みんなを大学まで行かせてくれた。頭の良かった兄貴が京都大に落ちており、難しそうだと自分も広島大に進んだ。

 もともと、おやじの後を継いで養蜂家になることも考えていたが「天候によって蜜の量が安定しない。生活が難しいぞ」と会社員になることを勧められた。修道高の先生に「就職には工学部がいい。どこでも通用する」とアドバイスをもらい、工学部に進むことにしたんだ。

(2022年1月21日朝刊掲載)

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <1> ボールは脇役

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <2> わんぱく少年

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <3> 己斐で被爆

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <5> 就職

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <6> 結婚

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <7> 入社

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <8> 海外出張

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <9> 円高

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