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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <3> 原爆

兄奪われ、怒りこみ上げる

  ≪1945年8月6日。大野西国民学校のグラウンドから原爆投下の瞬間を目撃する≫

 ピカドンだな。思い出すのも話すのも嫌。今でも涙が出てくる。つらいけど記憶をたどろう。

 夏休み中の登校日で、芋畑があるグラウンドで朝礼中だった。東方向を向いて整列していると、広島市内の方向から閃光(せんこう)がぱーっと広がって、どーんと爆音が響いた。学校では空襲にあった時、目と耳を押さえて地面に伏せるように教わっていたから、その通りにしたんだ。教室や近くの防空壕(ごう)に逃げた児童もいた。

 教室に戻って着席したが、先生がドタバタと学校内を走り回っている。さっきの爆発で何かが起こったんだと察した。しばらく待っていると、「家に帰りなさい」と言われた。

 帰宅して友達から「よっちゃん、遊びに行こうよ」と言われて大通りに出たんだ。すると、広島市内の方からどんどんトラックが走ってきた。荷台には顔がただれて大やけどを負った人がいた。私たちを見て力なく手を振ってくる人もいた。被爆した人だった。大野西国民学校が陸軍病院の分室になったんだ。その後、グラウンドでは亡くなった人の遺体を焼いていた。

 ≪軍人だった長兄の定美さんが被爆した≫

 広島の暁部隊に所属していた。大野には運ばれていなくて、家族は収容先を捜すため広島市内を走り回った。父母や姉のショックは大きい様子だったから、あえて詳しいことは聞かなかった。その後兄は見つかったが、原爆の犠牲になった。入隊前に優しく語りかけてくれたことを覚えていて、兄の死はわしの心に突き刺さった。

 幼心にふつふつと怒りがこみ上げてきた。「よし、今に見ておけよ。大きくなったら兵隊になって米国人を絶対にやっつけてやるからな」と誓ったんだ。それまでは割と優しい少年だったけど、戦争と兄の死がわしを少し野蛮にした。「このやろう」っていう感情かな。今思えば愚かな考えだよな。戦争なんか絶対にしてはいけないのに。いけん。また泣けてきた。

(2021年5月27日朝刊掲載)

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