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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <10> 昭和のイチロー

天才肌で安打を量産

  ≪天才肌の打撃職人。1963年に187安打を放つ。94年にイチローさん(オリックス)に抜かれるまで、パ・リーグ最多記録だった≫

 極意か。それは「来た球を打つ」。内角なら右脇を締めて、外角はおっつける。それだけよ。ストライクゾーンの高さと広さは決まっているから、そこを通る球を打てばいい。上下左右にくねくね曲がるわけじゃないんだから。みんな考えすぎなんだ。でも真剣に考えていたら、もっと打てたかもな。落第生よ。

 若い頃にバットを長く持って振り回していたら、(先輩の)蔭山和夫さんに怒られた。ボール球にも手を出すもんだから、親分(鶴岡一人監督)から「ばかたれ、あんな球を打ちやがって」としかられたな。無意識に修正していくうちに、自分の形ができていった。

 一番の思い出は、60年7月17日の大毎戦。観戦していた皇太子ご夫妻の前でいいところを見せたいと思って本塁打。狙って打てた唯一の一発じゃないか。61年には遊撃から中堅にコンバート。これで気が楽になった部分はある。

 ≪64年には当時のリーグ記録となる27試合連続安打をマークするなど、打率3割6分6厘で首位打者に。85年に落合博満さん(ロッテ)に抜かれるまで、右打者の最高打率だった≫

 テスト入団したわしには契約金がなかった。仲間に聞いたら結構な額をもらっていてうらやましかったな。この年は入団から10年。当時は「10年選手制度」というのがあって、ボーナスが懸かっていた。しっかりもらわないといけないと必死に練習したんだ。それまでは練習以外でバットを振ったことはなかった。

 ≪この年、打撃の感覚が狂うアクシデントに見舞われた≫

 内角の速球を打ったら、左手がけんしょう炎になった。ものすごく痛い。特に詰まった当たりの時に激痛が走る。それまでは一瞬の判断で出していたバットが、恐怖心で出なくなって嫌になった。それまで反応で打っていたのに、ヤマを張るようになった。そこから調子を落としていった。

 72年に通算2千安打を放ったが、どんな安打で、誰から打ったのか覚えていない。達成感はなかった。記録に興味がないんよ。

(2021年6月5日朝刊掲載)

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