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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <11> 3年連続Bクラス

しぶしぶ就任 監督の苦悩

  ≪1977年のシーズン終盤、「公私混同」を批判された野村克也監督が解任。バトンを引き継ぐ≫

 この年限りで現役を引退し、監督就任を要請された。正直、やりたくなかった。コーチの経験はない。飲んだくれて自由奔放に生きたい人間なのに、襟を正さなければいけない監督は苦痛で仕方がなかった。野球は楽しくやりたいんよ。現役時代は不真面目だったのに、選手に真面目にしろと言うのは苦痛。自分の良心が許さない。

 だけど引き受けて、球団の期待に応えるしかなかった。古里の広島県大野町で住民が激励会を開いてくれた。盛大に祝ってくれて、うれしかったが照れくさかったな。

 就任したからには本気で取り組まないといけない。前任のノムやんは「考える野球」を掲げたが、それを実践できない選手は腐ってしまう部分があった。それがチーム内の摩擦を生んだ。選手とのコミュニケーションをうまく取ろうとしたんだ。

 わしは高所恐怖症。現役時代は全て列車で移動したが、監督になってからは飛行機に乗った。もしチームに何かがあって、監督だけ乗っていませんでした、というわけにはいかないだろう。

 ≪野村監督を慕っていた江夏豊さんら主力が移籍した影響もあってチームは低迷。78年から3年間で最下位が2度、5位が1度≫

 負けることが一番つらい。下手くそな指揮をしやがってと思われるのは嫌だし、選手を批判することもしたくない。外にも飲みに行けない。「弱いのにこんなところで遊びやがって」と言われるだろう。平然とこなしていたノムやんは立派だ。

 成績を残せず寂しくて情けなかった。だけど辞めたらほっとした。「フーテン」な性格を封印していたが、それではわしの値打ちがなくなる。誰からも束縛されない新しい人生が始まると思った。

 ≪91年から2年間は、南海の後身であるダイエーでコーチとして後輩の育成に尽力した≫

 オーナーと話をして全ての責任を取らないといけない監督と比べたら楽だった。91年は大野久、92年は佐々木誠が盗塁王を獲得した。ユニホームを着たのはこれ限り。古里に戻ることになったんだ。

(2021年6月8日朝刊掲載)

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『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <2> 優しいガキ大将

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <3> 原爆

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <4> 野球との出合い

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <5> 転機

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <6> 契約金ゼロ

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <7> 尊敬する親分

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <8> 盟友・野村克也

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <9> 走塁のスペシャリスト

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『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <12> 故郷を愛す

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