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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <5> 転機

新聞記事に触発 野球再開

  ≪大竹高入学を機に、いったん野球から離れた≫

 毎日が憂鬱(ゆううつ)で、学校をやめたくなった。なぜなら連日のように野球部に勧誘されたから。授業が終わると先輩が待っている。「おい広瀬、野球部に入れよ」と言われ、「いえ、入りません」と断る。その繰り返しだった。

 心変わりしたのは1年の夏。中国新聞で、観音高の同学年が注目選手として取り上げられたんだ。それを読んで「観音高はトップレベルだと思っていたけど、こいつがやれるんなら俺だっていけるかも」と思って入部届を出した。あの記事が転機だった。

 ポジションは投手と野手を兼任。夏の県大会では1試合しか勝てなかった。2年の初戦で府中高に3―1で競り勝った。大竹高にとっての「夏初勝利」だった。試合内容はほとんど記憶にない。修学旅行と試合の日程が重なったら、修学旅行を選ぶぐらいの熱量しかなかったから。

 ≪2年の時、カープの入団テストを受けて合格≫

 野球部の1学年上の森内勝巳さんに誘われた。自分の力を試したいという遊び心で受けた。合格したのはうれしかったんだけど、入団はしなかった。野球で飯が食えるなんて思っていなかったし、この頃は大学進学しか考えていなかったんだ。

 3年の時は陸上もやった。表彰状はたくさんあるよ。野球では関学大や法大、陸上で早大から声が掛かった。教師になりたかったから早大に行きたいなという気持ちは少しあった。勉強もできていたからね。

 ≪南海の鶴岡一人監督と広島商業学校(現広島商高)時代の同級生で、「私設スカウト」を務めていた上原清二さんが試合を観戦。素質を見いだされ、南海の入団テストを受けるよう勧められる≫

 2軍戦で投げたのかな。「放ってみるか」と言われて、それじゃ放らせてくださいって感じだった。テストで2軍選手を見て、ふつふつと挑戦したい気持ちが湧いてきた。上原さんが足と肩を評価してくれて、鶴岡監督に「広瀬を取らないか」と進言してくれたんだ。教師になることから、プロ野球で活躍することに目標が変わった。上原さんがいなかったら野球選手になっていないよ。

(2021年5月29日朝刊掲載)

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