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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <6> 契約金ゼロ

故障し投手から野手へ

  ≪1955年、南海に投手として入団≫

 月給は1万5千円ぐらいで契約金はなかった。球は速かったけど、賢い投球はできないし、制球にも自信がない。投げ方が悪かったから肩と肘が痛くなってすぐに故障した。こんなんじゃいつまでたってもプロで活躍できないと察した。もともと打つ方が好きだった。1軍の選手でも、わしより打てない、走れない先輩がいたから野手に転向した。

 雑な選手なのによく務まったなと思う。足が速くて肩が強いから目立っただけじゃないか。2年目に1軍デビューして、いきなり7打席連続安打。この頃は真面目に野球をやっていたな。

 ≪入団3年目の57年に遊撃のレギュラーをつかむ≫

 内野守備は嫌だった。センスはない。この年は31失策、58年には42失策。下手くそよ。いつも遊撃には打ってくるなと念じていた。特にアウトにして当然のゴロは苦手。だけど、安打性の当たりは結構好捕したんだ。捕れなくても失策にならないから自然と力が抜けた。

 打撃がよくて助かったな。最初の打席で安打を打った時は、守備でミスをしても目をつぶってもらえるだろうと考えて楽に守ることができた。打てなかったらボロボロになっていたと思う。そんな性格よ。プロで通用しないなら大学を受験して教師になろうと思っていたが、結果を出せるようになってからは、そういう思いもなくなった。

 3年目は打率2割8分4厘、25盗塁を記録した。わしはええ加減で楽天的。宿舎に帰ってスイングなんてしたことがない。そんな時間があるなら、ちょっと一杯飲みに出掛けたいじゃないか。マージャンもよく付き合ったが、勝ったためしがない。みんなのカモだったな。

 若い頃、他球団からトレードの話がきたことがある。南海より高い年俸を出すというんだ。だけど移籍を申し出る雰囲気じゃない。行くって言ったら鶴岡(一人監督)さんに、ぶっ飛ばされるだろう。わしは鶴岡さんのことが大好きだから。監督に行けと言われていたら飛んでいっただろうけど、この人のために頑張ろうと心に決めていたんだ。

(2021年6月1日朝刊掲載)

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