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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <1> 感性の名選手

自由奔放の「フーテン」

 広島県大野町(現廿日市市)出身の広瀬叔功(よしのり)さん(84)は、プロ野球南海(現ソフトバンク)の黄金期を支えた名選手だ。呉市出身の鶴岡一人監督が率いるチームで俊足巧打の選手として活躍し、2度の日本一に貢献。現役23年間で通算2157安打、プロ野球歴代2位の596盗塁と輝かしい実績を残した。理論より感性を大事にしたプレースタイルは生きざまにも当てはまる。

    ◇

 わしは「フーテン」なんよ。若い頃は自由奔放で飲みに行くことが好き。点差が開いて早く試合を終わらせたい時は、併殺打を打ちたいなと思ったこともある。今考えると、とんでもないよな。北新地や難波、関東遠征では銀座によく行った。格好をつけてブランデーグラスを回していたな。

 打率を考えて野球をやったことはない。飲み代を稼ぐために頑張った部分もある。後輩と行けば全てわしが払っていたから。当時の南海は放任主義。鶴岡監督は「やることをやっているから仕方ないな」という感じで見守っていたんだと思う。

  ≪スピード感あふれるプレースタイルは「鷹(たか)の爪」と形容された≫

 今、「ホークス」と言えばソフトバンク。昨季まで4年連続で日本一に輝いている球団が、初めて日本シリーズを制したのは南海時代の1959年。捕手の野村克也やエースの杉浦忠、そして遊撃手で中軸のわしがいた。日本シリーズの相手は巨人。過去4度苦杯をなめ、当時は巨人を倒すことが目標の全てだった。杉浦は血豆ができていたにもかかわらず、全試合で投げて4連勝。悲願を果たし御堂筋でパレードもした。

  ≪通算2千安打を放ち名球会入りし、野球殿堂入りも果たした≫

 2千安打は通過点だから、どうってことはない。当時はサイン盗みがあったが、わしは嫌い。面倒くさいじゃないか。来た球を打ち、走りたい時に走り、うまくいけば喜ぶ。それでいいじゃないか。活躍できた理由は負けず嫌いだったから。ライバルが打つと、わしも負けておれんと思った。だけど少し調子が上向くと、その気持ちを忘れてしまうんだよな。(この連載は報道センター運動担当・上木崇達が担当します)

(2021年5月25日朝刊掲載)

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <2> 優しいガキ大将

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <3> 原爆

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <4> 野球との出合い

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <5> 転機

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <6> 契約金ゼロ

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <7> 尊敬する親分

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <8> 盟友・野村克也

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <9> 走塁のスペシャリスト

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <10> 昭和のイチロー

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <11> 3年連続Bクラス

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <12> 故郷を愛す

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