『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <2> 優しいガキ大将
21年5月26日
山を駆け島へ泳ぎ渡る
≪1936年8月27日、父千代治さん、母マツ子さんの次男として生まれる≫
両親がどこかにお金を払って名前を考えてもらったらしい。候補の一つが「人麻呂」だったんだけど、それじゃあちょっと、ということで叔功(よしのり)となった。
おやじは大工。酒好きだったが、おふくろは酒飲みが嫌い。家ではあまり飲めないから、仕事の打ち上げではここぞとばかりに飲んでいた。でも、むちゃはしなかったな。棟梁(とうりょう)として地元の人に見られているという意識があったんだろう。両親は自分に優しかった。7人きょうだいで姉が4人、兄と弟が1人ずつ。女が多くてちょっと堅苦しかった。
あだ名は、叔功にちなんで「よっちゃん」。遊び場は近所の山と海。そこを駆け回ってターザンごっこや兵隊さんごっこ、鬼ごっこに明け暮れた。宮島まで1人で泳ぐこともあった。潮が引いた時に、対岸でアサリを掘っている人を見に渡ったな。あんな遊びが足腰を強くしたんだと思う。わんぱくな親分肌で、地元のガキ大将。腕力が強くて足が速くて口も悪い。運動会で負けたことはないし、上級生と駆けっこをしても勝っていた。わしに向かってくるやつはいなかった。
だけど実はけんかをするのは怖かった。人を殴って泣かせた記憶はない。暴力は好かんかったし、けんかにならんかったらほっとしていた。悪いことはしていない。勉強もできて頭は良かった。
≪幼少期、戦時中の雰囲気は感じられず平穏に過ごした≫
近所はみんな親戚のように仲が良くて平和。たくさんの大人に見守られて育った。父も楽しそうに仲間と酒を飲んでいた。
わが家は田んぼを持っていて白米を食べていた。だから食事に不自由はせず、腹が減って仕方がないってことはなかった。今思えば優雅な暮らしだったんだろうな。
そんな日常が一変したのは、9歳の誕生日を間近に控えていた夏。思い出したくもない。だけど目の前に帯状の炎が走った光景は、今でも目に焼き付いている。わしにとって大事な人の命も奪われたんだ。
(2021年5月26日朝刊掲載)
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