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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <7> 尊敬する親分

鶴岡監督に師事し仲人も

  ≪同じ広島県出身の鶴岡一人監督を尊敬していた≫

 南海の選手は敬意を込めて「親分」と呼んでいた。わしにとっては第二の親で尊敬していた。選手に悪いことはさせないし、人付き合いにも目を光らせていた。わしは、ちょろちょろ動くという理由で「チョロ」とあだ名を付けられた。親分の期待を裏切ることはできない。なぜなら、南海入団に導いてくれた上原清二さんも裏切ることになるから。

 細かい指導はしない。「しっかり守れよ」っていうぐらい。親分から学んだのは技術より野球哲学。例えば「値打ちのない3安打より、勝ちに結びつく1安打の方が立派だ」と言われた。親分が残した有名な格言は「グラウンドには銭が落ちている」。若い頃はぴんとこなかったが、必死に練習してレギュラーになれば給料が上がるということ。主力になってその意味に気付いた。

 ≪鶴岡監督への恩義を感じて主力に成長≫

 親分からはあまり褒められなかったな。盗塁を決めても何にも言われない。高卒のわしや、ノムやん(野村克也)は「ばかたれ」「しょうもないミスをしやがって」と怒鳴られたけど、大卒のスギやん(杉浦忠)はそんなきつい言われ方はされなかった。内心では「何をぬかしとるんや、このおやじは」と思うこともあったよ。でもわしの性格を知っていたんだと思う。褒めなくてもやる時はやる男だと。

 プライベートも口うるさく言われなかった。わしは縛られたら飛んでいってしまう性格。他球団だったら、こうはいかなかったかもしれない。特に巨人。(管理野球の)川上(哲治)さんが監督だったから、「風紀を乱すな」って怒られていただろう。親分が率いる南海で本当に良かったと思っている。

 ≪1960年に結婚。仲人は鶴岡監督が務めた≫

 それまで親分は、選手の仲人をしたことがなかったらしい。わしみたいな、ひよっこの頼みなんて当然断られると思っていた。それが「結婚するんですが…」と切り出したら、「分かったよ。仲人か。しょうがないのう」って引き受けてくれた。うれしかったな。

(2021年6月2日朝刊掲載)

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『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <4> 野球との出合い

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <5> 転機

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