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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <8> 盟友・野村克也

飲み仲間と門限破りも

  ≪ともに南海の黄金期を築いた野村克也さんとはプライベートでも親交が深かった≫

 ノムやんは1歳上。入団したての頃は宿舎の風呂や便所掃除を一緒にした。どちらがどの担当かは忘れたが、「広瀬の掃除場所の方が楽でいいよな。俺と代わってくれよ」って言われた。わしは無頓着で、彼は抜け目ない性格だった。

 エースのスギやん(杉浦忠)と3人でよく飲みに行ったもんだ。ノムやんは酒を飲まないんだけど付き合ってくれた。厳しいプロの世界で、本当に密な関係にはなりにくいもの。でも3人は気が合った。不思議なもんだな。

 寮の門限を破ることもあった。ノムやんが「おい広瀬。頼むわ」と言うんだ。わしが外から2階に登って、鍵が開いている窓から侵入して玄関の鍵を開ける。常識知らずで身軽なわしだからできる。ノムやんなら落っこちるだろ。そんなことがあって、親分(鶴岡一人監督)からは「南海の3悪人」と呼ばれたよ。

 ≪ともに2千安打を放つなど好打者に成長した≫

 実力はいい勝負だと思う。わしは中距離打者でノムやんはホームラン打者。道具を大事にする男で、バットを牛の骨で磨いていた。父を早くに亡くして苦労したからだと思う。

 ≪1969年オフ、野村さんが選手兼任監督となる≫

 監督交代を機にプレースタイルが堅実になった。親分の時はミスをしても「ばかたれ」と怒られておしまい。だけど友達のノムやんに恥をかかせるわけにはいかないし、新米監督に責任を負わせたくない。だから後輩の模範となるプレーをしようとしたんだ。

 ただ時がたつにつれ、ノムやんとの間に距離が出始めた。理由は分からない。監督という立場になったからだろうか。ざっくばらんに意思疎通すれば良かったが、すっと逃げられた。わしの代打として投手を送られたこともあった。あれには怒った。しばいたろうかと思ったよ。

 だけどノムやんには感謝しているんだ。わしを一度だけ投手として起用してくれたこともある。やっぱり大事な友達。スギやんも、ノムやんも、もう亡くなった。懐かしいな。寂しいな。また、会いたいな。

(2021年6月3日朝刊掲載)

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『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <2> 優しいガキ大将

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <3> 原爆

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <4> 野球との出合い

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <5> 転機

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <6> 契約金ゼロ

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <7> 尊敬する親分

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <9> 走塁のスペシャリスト

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『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <11> 3年連続Bクラス

『生きて』 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年~) <12> 故郷を愛す

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