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連載・特集

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <4> 同級生

育んだ友情 活躍励みに

  ≪修道中高(現広島市中区)に進学。高校でブラスバンド部に入る≫

 中学は部活動をしなかったけど、高1になってトランペットを始めたんだ。同じクラスに徳本靖(おさむ)君(後の会社社長)というトランペットの名手がいて、これが情熱的なやつでその年に部を立ち上げたんだ。仲の良い同級生の万代峻君(後の三建産業社長)も誘って3人で猛練習した。

 秋の体育祭が最初の晴れ舞台だった。新ぴかのトランペットでファンファーレを吹いて、全校生徒が入場行進をする。すごく高ぶったね。でも吹き始めたら変な音がして、「音を外してるやつは誰だ」と演奏を止めてみたら良い音しかしない。下手なのは僕だった。何せ楽器経験なしの素人だからね。家の物干し台で練習したけど「ひどい音だ」ってよく近所から怒られたよ。

 ≪高2の夏、同級生と合宿した≫

 修学旅行は京都、奈良の予定だったけど「そんな所いつでも行ける」と僕たちだけ代わりに三段峡(現広島県安芸太田町)で合宿することにした。資金は修学旅行の積立金だ。

 徳本君、万代君に増原義剛君(元衆院議員)、後に弁護士になってカルロス・ゴーン(元日産自動車会長)の弁護をする弘中惇一郎君と5人で、1カ月くらい農家を借りた。毎日泳いだり勉強したり…。監督する大人はいない。よく学校が許してくれたよね。

 ≪校風は自由でバンカラ≫

 男子校であっけらかんとした雰囲気だった。当時は1学年400人の成績が上からビリまで張り出されたんだけど、机の同じ列で成績の悪い生徒を殴らせるなんて授業もあった。むちでたたく先生もいたし、むちゃな時代だ。でも楽しかったね。

 僕は中学では真ん中くらいの成績だったけど、高校で上から40、50番くらいに上がった。あの合宿の後の模擬試験は特に良かった。それだけ友達が優秀だったんだろう。

 彼らはそれぞれの進路で立派になった。同級生の活躍は励みになる。みんな今も交流が続いていて、遠鐘クラブ(上田流の後援組織)に入ってくれている。内々では昔の通りざっくばらんなのに茶会のときは一歩引いて僕を家元として立ててくれる。本当に良い友人を持ったよ。

(2021年9月3日朝刊掲載)

『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶

『生きて』 宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <2> 幼少期

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <3> タカノ橋商店街

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <5> 大学時代

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <6> 銀行員から転身

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <7> 和風堂復元

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <8> 三つの展覧会

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <9> 老師との出会い

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <10> へうげもの

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <11> 宗篁若宗匠

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