『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <6> 銀行員から転身
21年9月7日
覚悟を決め養子入り
≪慶応大を卒業後の1968年、広島銀行に入行する≫
マツダと迷ったけど、母の体調が心配だったので転勤の少なそうな広銀を選んだ。八丁堀支店の外交員として愛車のヤマハ・メイト70にまたがって泥だらけ、汗まみれになって駆け回ったな。経済が伸びている時代だから融資をしてもまず失敗しない。融資先から感謝されるし充実感があった。
≪跡継ぎのない上田家から養子入りを打診される≫
帰郷した頃は手伝いくらいの気持ちだった。でも先代(母方の伯父で15代家元の宗源氏)は匂い立つような気品のある人だったけど、世事には疎くて。家が苦しくなる中、72年に先代から直々に上田家への養子入りを頼み込まれて覚悟を決めた。
とはいえお茶を本業にするなんて考えられない時代。みんな経済復興ばかりに目が行って文化に関心を払わない。銀行員だっただけに、そういう世の中の雰囲気には敏感だったんだ。しばらくは二足のわらじで、銀行の外回りの途中にお茶席へ駆け付けることもあった。
≪75年に銀行を退職する≫
岡山や東京・新宿の新規支店の開設メンバーになってくれと転勤を命じられてね。仕事ぶりを評価してもらったんだけど結局断らざるを得なかった。「中途半端なままでは銀行にも迷惑だ」と思って、仕事が一段落したところで区切りをつけた。
銀行で社会の仕組みを知ることができたのは良かった。お茶の事業で財界の支援を仰ぐときも、誰の所に行けばいいか勘所が分かる。辞めてすぐ二宮実さん(元広島信用金庫理事長)の勧めで広島青年会議所(JC)の会員になった。経営者の子息以外が入るのは珍しかったけど「上田流を知ってもらえ」と後押ししてくれた。
79年には理事長だった熊平雅人さん(現熊平製作所会長)の提案で広島JC内に茶道愛好会「直心(じきしん)会」ができ、翌年にはOBも含めて上田流の後援組織「遠鐘(えんしょう)クラブ」につながった。遠鐘クラブはJCの縁で各地に組織が広がり、上田流の活動を支えてくれた。大変心強く、感謝してもしきれない。大変なときに誰かが手を差し伸べてくれる。上田流の将来に可能性を感じたよ。
(2021年9月7日朝刊掲載)
『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶
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『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <3> タカノ橋商店街
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『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <5> 大学時代
『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <7> 和風堂復元
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