『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <5> 大学時代
21年9月6日
兄慕い上京 生活を満喫
≪5歳違いの兄一之さんを追いかけ上京。慶応大経済学部に入る≫
兄は成績優秀で大学3、4年の成績は全てA。当時は卒業して明治生命で働いていたけど、兄のようになりたい一心で同じ学部に入ったんだ。
兄弟で中野にあった精肉店の2階の8畳間を借りて暮らし始めた。でも僕が入学早々マージャンやボウリング、酒に明け暮れて深夜に帰ってくるものだから、数カ月で追い出されてしまった。兄は文句も言わずまた近くで別の下宿を借りてくれた。今でも頭が上がらないよ。
慶応は福沢諭吉先生の前ではみな同志という考えからか、教授たちは年の離れた学生にも「君」を付けてくれた。勉強のできるできないにかかわらず、人間的な魅力に敬意を払う雰囲気は修道と似ていたかな。
≪学生生活を満喫する中でも、茶の稽古は欠かさなかった≫
小学校の頃は自宅で母から、中高では毎週古江(広島市西区)の上田家に通って家元からお茶の手ほどきを受けてきた。お茶は自分の一部になっていたと思う。僕は「動」の人間のようでいて、「静」を好む心も生来持ち合わせているんだろう。
大学では戦前からの伝統がある慶応大茶道会に入った。ここは各自どの流派を習ってもいい。僕は三軒茶屋(世田谷区)に上田流の教室を持っていた石橋さんという女性の先生の元で稽古した。上田流を習い続けられたのは幸運だったね。
茶道会の同級生には江戸千家の川上宗雪家元がいた。彼は在学中に家元を継いだ苦労人。あるとき悩みがあると言うから「女か」とちゃかしたら「家を継ぐ」と言われ驚かされた。彼は僕が上田家を継いだ後、ずっと「君を励みにしたい」と言っていた。似た境遇と思ってくれたんだろう。僕の方こそ、人間的な深みを持ち一心に茶に取り組む彼の姿は、とても刺激になった。茶の世界で互いに高め合う友を得られたことも幸運だった。
≪卒業が近づくと、兄一之さんから広島に帰るよう言われる≫
「僕は東京に残る。おまえは母と家の面倒を見ろ」と。尊敬する兄の言うことだから一も二もなく帰郷を決めた。数年後に兄も転職して帰ってきたときは随分抗議したけどね。
(2021年9月4日朝刊掲載)
『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶
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『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <6> 銀行員から転身
『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <7> 和風堂復元
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