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連載・特集

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <9> 老師との出会い

参禅 宗冏の名を授かる

  ≪40代になり、岡山市中区にある臨済宗妙心寺派曹源寺の住職、原田正道老師の元に通うようになる≫

 37歳で和風堂を再建し、39歳の時には広島青年会議所(JC)の理事長になった。そしてJC全国大会の広島開催を成功させた。ひたすら走り続けて社会の方を向きすぎていたのか、足がふわふわと浮くような心身の不安定を感じるようになった。

 42歳の夏、縮景園(広島市中区)で被爆者慰霊の献茶をした際、ひしゃくを持つ手が震え体がこわばり、明月亭の別室で寝かせてもらった。このままでは駄目だと思い、ちょうど知り合いから戦後の禅を引っ張った山田無文老師のお弟子さんが岡山におられると聞いたので、曹源寺の門をたたいた。初めて会った原田老師は、超俗的で透き通った目が印象に残った。僕の5歳上でほぼ同年代だから余計にこの違いは何だ、と。以来年1、2回の参禅を続けている。

 ある時、「私はてきぱきしていると言われるが、悩んでばかり。人を引っ張るなんて向いてない」と弱音を吐いた。すると老師は「意識しなくてもできる人はかえって失うものも多いですよ。一歩ずつ歩みを進める方がその努力を見て人もついてきてくれます」と諭してくださった。緊張の糸が切れ、そのときは涙があふれて止まらなかった。

 ≪60歳で原田老師から法諱(ほうい)(法名)として「宗冏」の名を授かる≫

 還暦と家元を継いで10年の節目、禅修行の集大成のつもりで老師に授戒を依頼した。それまでは若宗匠になった時に先代(宗源15代家元)からもらった「宗嗣」を名乗っていた。以降は宗冏としてお茶の活動を続けている。

 受戒には迷いもあった。上田家は明治以来、神道を家の宗教にしている。先代も饒津(にぎつ)神社(東区)の宮司だった。矛盾しないかと悩んだ。結局、在家で神道の祭事もするなら良かろうと納得した。江戸時代に縁のあった仏寺との交流が復活し、結果的にご先祖にも良かった。

 宗冏の「冏」は「明るく光る」という意味。お茶で人間本来の在り方を明らかにしてほしいとの老師の願いだ。「悟ったと思った瞬間に人は駄目になる」とも言われた。これからも宗冏の名を胸に、日々油断なく終わりのない探求を続けたい。

(2021年9月10日朝刊掲載)

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