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連載・特集

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <11> 宗篁若宗匠

帰郷した跡継ぎに期待

  ≪1993年、広島工業大付属中(現広島なぎさ中)3年で14歳の長男重安さんを次の家元に定め、広島市西区の和風堂で元服式を開く≫

 ただ茶の湯を継承するだけでは純然とした「茶家」になってしまうという思いがあった。上田流は武家茶道で「武家」の要素も必要。古文書に当たると武士は元服をしている。これだ、と思った。

 ≪重安さんは以来、号「宗篁(そうこう)」を名乗る≫

 妻(弥生さん)の父で奈良の春日大社宮司だった花山院(かさんのいん)親忠さんが「竹林の七賢」という中国の故事にちなみ名付けてくれた。上田宗箇が竹やぶで敵将を待ちながら削ったという茶しゃく「敵がくれ」の逸話とも重なる良い名前だね。大勢の前で宗篁も「覚悟を決めます」と殊勝なことを言っていた。ただ、多感な時期にプレッシャーだったんだろう。その後は髪を染めたりイヤリングをしたり、お茶と違う方にどんどん進んでいった。家を継がせるとは難しいものだなと思ったよ。

 大学ではストリートダンス一筋。妻は宗篁が家に帰ってくることはないと諦め気味だった。でも宗篁が20代後半の時、たまたま8月6日に帰郷してきたので平和記念式典に連れて行った。そこで「生き残った僕たちはちゃんと生きていかなければ」とつぶやくのを聞いて、僕は「ああ、これは大丈夫だ。きっと広島に帰ってくるな」と確信した。

 ≪宗篁さんは2007年3月に帰郷し、若宗匠として活動している≫

 ダンスでは結構名が通っていたみたいだけど、なぜ帰ろうと決めたか詳しくは聞いていない。僕はほとんど宗篁や3人の娘に口を出さない。忙しくて妻に育児を任せきりだったのもあるけど、時代は変わるし性格も違うから。

 宗篁は4年前の8月に大病をして今でも足が不自由。闘病はつらかっただろうし、今は座るのにも難儀している。でもそれまでどこか斜めに構えていた彼が、まっすぐ生を見つめ始めたように感じる。僕とは違う方法で上田流の茶に向き合う転機を得た。彼の人生だから彼が工夫して切り開くしかない。期待していますよ。

(2021年9月14日朝刊掲載)

『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶

『生きて』 宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <2> 幼少期

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <3> タカノ橋商店街

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <4> 同級生

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <5> 大学時代

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <6> 銀行員から転身

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <7> 和風堂復元

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <8> 三つの展覧会

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <9> 老師との出会い

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <10> へうげもの

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