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連載・特集

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <3> タカノ橋商店街

がんぼな少年 心の古里

  ≪1952年、広島市中区のタカノ橋商店街に移り住む≫

 公設市場(後のショッピングセンター「タカノ橋こうせつ」)の一角で母(幸子さん)は「カラタチ洋品店」という店を始めた。たった17坪(約56平方メートル)の敷地で1階が店舗、2階に母子4人で暮らした。母はお嬢様育ちだったけど、高校では走り高跳びで全国大会に出たこともあるくらい努力家で負けん気が強かった。

 洋品店はうまくいかず、1年ほどして今度はパンを売ることにした。これはすごく繁盛して小学生の頃はよく手伝っていた。母は2階の6畳間に蓄音機を置いて「美しき青きドナウ」をよくかけていた。青春を思い出す曲だったのかな。

 母が狭心症を患って僕が16歳のころ店を別の人に貸すことにしたけれど、2年前に「こうせつ」が閉まるまで店はずっと残していた。僕たちきょうだいにとっても宝物みたいな場所だからね。

 ≪小学校時代は悪童だった≫

 市場の熱気の中で育ったせいか、がんぼ(いたずらっ子)だった。当時の知り合いには「潤ちゃん(本名の潤二にちなんだ愛称)は悪かったよ」と言われる。兄(一之さん)が友達とメンコで遊んでいると、わざわざげたで踏み付けていく。5歳も上なのに恐れ知らずだよねえ。

 学校の朝礼で「決闘状」が回ってきたこともあった。百メートル通り(平和大通り)で、どっちが強いか決めようとね。褒められたことではないけど、思い出すのは胸の高鳴りと高揚感。やじ馬に囲まれて素手で殴り合った。今のいじめみたいな陰湿さはなくて、からっとした、すがすがしさがあった気がするな。

 ≪商店街は心の古里、「ホームタウン」だという≫

 若い頃、お茶の活動でテレビに出ると市場の人たちが喜んでくれた。お隣だった店の天ぷらは大人になってもよく買いに行っていた。家族は「普通」と言うけど僕にはごちそうだったんだ。見知った顔も少なくなったけど、数年前に喫茶店「ぶらじる」に入ったら店主が「懐かしいねえ」と言ってくれてうれしかったね。一度、息子(宗篁(そうこう)若宗匠)を連れて来て「ここがお父さんの原点だぞ」と言ったことがあるけど反応が薄かったなあ。

(2021年9月2日朝刊掲載)

『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶

『生きて』 宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <2> 幼少期

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <4> 同級生

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <5> 大学時代

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <6> 銀行員から転身

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <7> 和風堂復元

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <8> 三つの展覧会

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <9> 老師との出会い

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <10> へうげもの

『生きて』 茶道上田宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <11> 宗篁若宗匠

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