『生きて』 宗箇(そうこ)流16代家元 上田宗冏(そうけい)さん(1945年~) <2> 幼少期
21年9月1日
原爆後の家族守った母
≪1945年6月20日、父高木一郎さん、母幸子さんの次男として安村(現広島市安佐南区上安)で生まれる≫
5歳上の兄(一之さん)と3歳上の姉(公子さん)がいて、僕が末っ子。父は京都帝国大(現京都大)を出て関西の旧三菱銀行に勤めていたが、軽い結核を患って僕が生まれた時には家族で帰郷していた。
父の実家の高木家は元は安の地主だった。江戸時代は庄屋格で、明治には現在のJR可部線の敷設に関わるなど地元の実業界で活躍したらしい。数年前に郷土史家の方が調べてくれて分かったんだ。
祖父の茂は弁護士で中島町(現中区の平和記念公園内)に自宅兼事務所を構えていたけど、安にも客をもてなす別荘を残していて、そこが僕の生家になった。花田植えを眺められるよう石垣の上にあった。今は石垣はないが、兄が守ってくれている。
母の実家が上田家。戦前は旧広島藩家老の「上田男爵家」だから、恐らく恋愛結婚ではないんだろう。
≪生後2カ月の8月6日、広島に原爆が投下される≫
父方の祖父母は自宅で即死だったらしい。父も連日、祖父母を捜し回って入市被爆し、白血病を患って50年に36歳で亡くなった。記憶は断片的だけど、病院に横たわる痩せた父の姿と、安の山の上で火葬したことを覚えている。兄と姉が母の胸に飛びついたのを見て、幼い僕はどうして良いか分からず追いかけるようにしがみついた。母はぼうぜんとして涙も出ないという感じだったと思う。そんな大変な時期だったので幼い頃の話は母からほとんど聞いてないし、写真も残っていないんだ。
≪母子は現在の西区にある上田家へ移り住む≫
居候だったので遠慮もあったのかな。母は2年後にはタカノ橋商店街(現中区)で洋品店を始め、店の2階で子ども3人と暮らし始めた。戦前の何不自由ない生活を考えたら、つらいことの連続だったと思う。当時のことは89年に71歳で亡くなるまでほとんど話したがらなかった。
ただ僕にとって、実はこの時代の母の姿が一番好きだった。家族を守ろうと必死だった母の背中は幼心に頼もしく、輝いて見えたんだよ。
(2021年9月1日朝刊掲載)
『生きて』 宗箇流16代家元 上田宗冏さん(1945年~) <1> 武家の茶
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