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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

07年以降 資料館に

新たな撮影者は4人と1調査班

 1945年8月6日から同年末までに日本の市民や写真家たちが広島を撮った「原爆写真」について、本紙が調査結果を掲載した2007年以降、4人と1調査班が撮影していたことが原爆資料館(広島市中区)への寄贈資料から確認され、少なくとも計117枚を撮っていたことが4日、分かった。撮影者が未特定の写真を含めると、07年以降に同館へ寄贈された原爆写真は212枚になる。(水川恭輔)

 本紙は07年8月14日付の特集「ヒロシマの記録」で、それまで詳しく分かっていなかった原爆写真の全容について調べ、「57人が少なくとも計2571枚を撮っていた」と報じた。その後15年近くがたつ中、07年以降の寄贈記録を基に特集の時点で未判明だった撮影者と写真を調査。収蔵後に撮影時期の詳しい分析がされていなかった写真も同館学芸員の協力を得て検証した。

 同館が寄贈者の証言や関連資料から新たに撮影者と確認した4人は、いずれも被爆した市民。現在の廿日市市から被爆後の広島市内へ救護に入った故中前義美さんは45年9~10月、爆心地近くの焼け跡を11枚撮り、07年10月に遺族が寄贈した。残る3人は少なくとも計23枚を撮っていた。

 また、45年10月から広島で調査した地震工学者の故金井清さんの関係者が18年に寄贈した資料の中に、45年末までの広島の写真83枚が含まれていた。金井さんと助手のどちらが撮ったかがはっきりせず、同館は撮影者を2人の調査班として整理している。

 さらに、大阪海軍調査団の一員で8月10、11日に広島に入った故山田正明さんのアルバム(18枚)、10月に入った機械工学者の故吉沢武男さんのアルバム(77枚)の寄贈も受けた。撮影者は、まだ特定できていない。

 4人と調査班の写真と2人のアルバム計212枚のうち、吉沢さんの4枚は過去の刊行物に載っていたが、ほかの大半は長年未公開だったとみられる。一部は、原爆資料館が収蔵後に新着資料展で紹介した。インターネット上で写真を公開する平和データベースには未登録で、さらに細かい検証をした上で登録を進めたいという。212枚のほかにも一部、情報不足などで検証途上のカットがある。

 被爆後の混乱やフィルムの不足のため、原爆を落とされた側が被爆後の広島を撮った写真は数が限られるものの、埋もれた写真の寄贈は続いている。資料館は今後も収集に取り組む。

(2021年12月5日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

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