×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

使命と惨状 涙のカット

晩年まで証言 次代へ

 1945年8月6日から同年末までに日本側が被爆後の広島を撮った原爆写真は計2700枚以上が確認されている。そのうち、未曽有の混乱の中にあった6日当日に市民の惨状を捉えた写真は、5枚だけだ。元中国新聞社カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)が撮影した。

 松重さんは当時32歳。中国新聞社写真部に所属し、広島城内の中国軍管区司令部の報道班員でもあった。

 同社も司令部も市中心部にあったが、6日の朝は空襲警報に伴う司令部での待機が明け、現在の南区西翠町の自宅に帰っていた。「その朝たまたま家に帰ったことが、私の生死を分けました」(広島平和文化センターが86年に制作した証言映像)

 朝食を済ませ、出勤途中で便所へ行きたくなり、再び戻って被爆。強烈な爆風を感じたが、爆心地から2・7キロの自宅は倒壊を免れた。自宅近くの御幸橋を渡り、同社か司令部に向かおうとした。しかし火炎の勢いを見て、橋まで戻った。

「助けもせずに」

 その御幸橋で髪も皮膚も焼けただれた何十人もの人がうめき泣いていた。カメラを構えたが、撮影をためらった。「あまりにかわいそうでした。助けもせずに写真を撮っている、と思われる気もしたんです」

 ちゅうちょの末、「心を鬼にして」後ろから1枚を撮り、近づいてもう1枚を撮った。戦後間もない頃に記された手記には、こう書いている。「『ひどいことをしやがったな』といゝながら一枚写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーがくもっていた」(52年刊の「原爆第1号ヒロシマの写真記録」収録の手記)

 午後、火炎の衰えを見て市街地に入った。市内電車の中に折り重なった遺体を見た。「あまりに気の毒」で市中心部の写真は一枚も撮れなかった。御幸橋の2枚のほかは自宅兼理髪店の内部など3枚を撮った。

 カメラマンの使命と、惨状を前にした葛藤の末に残された5枚。占領が明けた後から国内外で広く紹介され、代表的な原爆写真となった。松重さんは78年に他の撮影者と「広島原爆被災撮影者の会」を結成し、原爆写真ネガの保存を呼び掛けた。5枚のネガは98年に中国新聞社へ譲渡し、保存と活用を託した。

写真外の記憶も

 そのネガは今年3月、市重要有形文化財に指定された。長女井下加代さん(78)=三次市=は指定の知らせに、写真を見せながらの体験証言を晩年まで続けた父の姿をあらためて思い起こした。「私自身、娘が通う中学校で父が証言するのを聞き、胸が詰まったことが忘れられないです」

 松重さんは証言で、撮影時の状況を詳しく話すとともに撮れなかった惨状を伝えた。「二度と起こってはならないということを次の世代に継承しなくてはなりません。ファインダーを通して8月6日を見たカメラマンとしての私の使命でもあります」(証言映像)。そんな思いからだった。

 負傷者にカメラを向ける葛藤、肉親を奪われた悲しみ、軍の命令や専門家の職務…。自らも核兵器の惨禍に遭いながらシャッターを切った被爆者や遺族たちの体験、胸の内は一様ではない。同時に、どの一枚にも二度と起こってはならない光景が記録されている。

 写真のフレームの内外で何が起きていたのか。写っていないものを含め、何を語っているのか。手記や証言、家族たちが受け継ぐ記憶を基に読み解き、伝えていく。それは今、写真に刻まれた被災撮影者のまなざしを通して被爆の惨禍を見る私たちの務めである。(水川恭輔、明知隼二)

(2021年12月15日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

年別アーカイブ