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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

爆煙仰ぎ「思わず」連写

資料館 まなざし刻む

 湧き上がる巨大な雲を仰ぎ見る4枚の写真。軒や松の枝が映り込んだカットはどれも少しずつ角度が異なり、次々と形を変える原子雲をフレームに収めようとした撮影者の心情が読み取れる。原爆投下の直後、16歳だった深田敏夫さん(2009年に80歳で死去)が爆心地の南東約2・6キロの近距離で残した写真だ。

 深田さんは当時、旧制崇徳中を4年で卒業後、引き続き陸軍兵器補給廠(しょう)(現広島大霞キャンパス、広島市南区)に動員されていた。「学友のなかでカメラに熱中している者がかなりいて、私もその一人であった」(広島原爆戦災誌、1971年刊)。45年8月6日も、ズボンの後ろポケットには小型カメラを入れていた。

2階北側窓から

 本人の証言や手記から、あの日の撮影状況が浮かぶ。朝礼を終え、作業現場だった赤れんがの兵器庫前で指示を待っていると、閃光(せんこう)を感じてとっさに建物内へ。その直後、爆風に吹き飛ばされた。ゆがんだ鉄扉から外に抜け出すと「見たこともない大爆煙」が空に立ち上っていた。

 「思わずポケットに手がかかる」。軍施設での撮影は許されないと分かっていたが、友人に見張りを頼み、2階北側の窓から立て続けにシャッターを切る。原爆投下後に上空からきのこ雲を撮った米軍の写真と違い、全体像は見えなかった。「世界最初の原子爆弾の爆煙であるとは、夢にも思わなかった」

 廠内の被害について多くの動員学徒が手記を残す。「木造の建物は殆(ほとん)どが倒壊し、頑丈な赤煉瓦(れんが)の廠舎の窓ガラスは粉々に」「兵器庫内にて被爆、ガラス傷等で血だらけになる」。その一人、旧制修道中3年だった岡島元信さん(90)=佐伯区=も廠内で同じ爆煙を見上げたが「何だろう、と考える余裕すらなかった」。広島の原子雲を地上から記録した写真は20枚余が確認されているが、深田さんは最も近い場所で、混乱の中でのとっさの撮影だった。

戦後も撮り続け

 戦後はカメラ店を営み、78年に結成された「広島原爆被災撮影者の会」に加わった。解体が進む兵器補給廠の建物にもカメラを向けた。しかし妹和子さん(91)=中区=によると「家族に原爆の写真の話はしなかった。悲惨な光景を思い出したくなかったのでしょう」。深田さんは自宅で大切に保管したネガを04年、原爆資料館に寄託。09年に亡くなった。

 広島大霞キャンパスの発掘調査をした同大の藤野次史名誉教授(考古学)の協力で、深田さんの撮影地点の特定を試みた。「二号館」「兵器庫」といった証言と戦前の兵器補給廠の配置図を照合すると、キャンパス北西部にある立体駐車場の南東辺りの可能性が高いと分かった。

 再開発が進んだキャンパスに立って周囲を見渡しても、当時の様子をうかがい知ることはできない。ただ、残された深田さんの写真には、何が起きたのかも分からないまま、この場所から巨大な雲を見上げた1人の少年のまなざしが刻まれている。深田さんが残した写真は今も、原爆資料館の本館導入部の壁面に大きく引き伸ばして展示されている。(明知隼二)

(2021年12月6日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

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