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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

同僚犠牲「震えやまず」

惨禍伝える被爆建物

 爆心地に近い西側の外壁は崩れ落ち、屋根が抜け落ちている。76年前、本通り商店街(現広島市中区)にあった鉄筋2階建てルネサンス様式の帝国銀行広島支店。当時32歳で同支店に勤めていた井上直通さん(2005年に92歳で死去)が1945年8月末から9月上旬ごろに撮影した。

被爆時は自宅に

 「体の震えが止まりませんでした」(94年8月30日付中国新聞)。井上さんは生前、撮影時の衝撃を本紙に語っている。爆心地から360メートル。机やカウンターは跡形もなくなり、がれきが散乱した店の内部などにもシャッターを切った。

 同支店の貸付係だった井上さんは45年6月に召集され、広島城東側に拠点を置く歩兵部隊に配属。8月初めに感染症の疑いで部隊からの隔離を命じられ、6日朝は爆心地から約1・7キロ北の自宅で被爆した。

 頭や腕にやけどを負ったが、取材には「生き残れただけでも、運が良かった」と話した。同じく支店員だった義兄は通勤途中に被爆し、遺骨すら見つからなかった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)は、支店内にいて即死を免れた人も結局は助からず、支店員32人が犠牲となったと記している。

 帝国銀行など大きな被害を受けた市内の銀行は被爆の2日後から、焼け残った日本銀行広島支店の建物を使って仮営業を始めた。自宅で助かった帝国銀行広島支店員の故興津恒一さんの手記によると、同支店にあった米国製の金庫は無事だったが、鍵を持つ次長が行方不明になった。約1カ月開けられず、日銀から借り入れて預金の払い戻しをしたという。

 井上さんは療養後の8月下旬から日銀に出勤。本店への被害状況報告を求められ、知人宅に預けていたカメラで支店を撮影した。壊れた支店を50年に改修した際には「呉市にあった英連邦占領軍総司令部に掛け合い、特配セメントを入手した」という。その後東京に転勤し、広島を離れた。

 建物は67年にアンデルセングループが購入し、パンの製造販売などの店を開いた。昨年8月、被爆壁の一部を使って建て替えられた新店舗がオープン。店の前には、井上さんの写真を使った銘板が置かれている。

歴史展示に採用

 本通り近くの八丁堀周辺では、百貨店の福屋の新館(現八丁堀本店)と向かいの旧館も爆心地から約700メートルで被爆した。いずれも倒壊は免れたが、内部は焼失した。

 被爆後の店舗にカメラを向けたのは、福屋の社員だった林寿麿(かずま)さん(79年に84歳で死去)。当時50歳で、広島原爆戦災誌などによると、福屋の商品課長から南観音町(現西区)の配給会社に出向中だった。同社の寮で被爆後、家族が疎開していた現在の東広島市に避難した。45年秋、別の仕事で広島に通い、福屋や周辺の焼け跡を撮った。

 林さんは戦前に広島山岳会の設立に関わり、登山時に使うカメラを持っていたという。「山へ向けて切っていたカメラのシャッターを、瓦礫(がれき)の町へ向けて切ることになった」(同戦災誌)。

 今も被爆建物として残り、営業を続ける八丁堀本店。創業90年の2019年に、福屋と広島の歴史の展示スペースが設けられ、写真約110枚が並ぶ。林さんの写真2枚も掲示されている。元社員が残した写真が、被爆の惨禍と復興への原点を確かに今に伝えている。(水川恭輔)

(2021年12月12日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

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