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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

「観測は使命」 記録継続

検閲逃れて調査保管

 家族連れや校外学習の子どもたちでにぎわう江波山気象館(広島市中区)の一室で、学芸員が収納箱から5枚のネガを取り出してくれた。かつて同じ建物にあった広島管区気象台(現広島地方気象台)に勤めた北勲さん(2001年に89歳で死去)が残した写真だ。

 原爆の爆風で歩道がせり上がった相生橋(中区)や倒壊した鶴羽根神社(東区)、熱線で自然発火した線路沿いの柵(西区)―。1945年8月末~9月下旬、気象台による原爆被害調査などの中で撮影され、北さんの没後に遺族が気象館に寄せた。

 34歳だった北さんは45年8月6日、爆心地から約3・7キロの江波山(37・6メートル)の山頂にあった気象台に出勤していた。閃光(せんこう)に続く爆風が、遮る物のない気象台を襲った。「職員が多く負傷し、住家を焼かれ、肉親などを亡くした」。北さんは後年まとめた文章で、当時の気象台の窮状を振り返っている。欠勤者が増える中で「昼夜連続の観測を続けることは至難」。それでも「欠測してはならないという使命感」で気象の記録を続けた。

市内や周辺歩く

 人員と物資の不足が続く中、気象台は9月下旬、旧文部省学術研究会議による「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の気象部門の調査に奔走することとなる。北さんも市内や周辺町村を歩き、建造物の被害や「黒い雨」の降った状況などを記録。県内で2千人超の死者を出した枕崎台風の被害も含め写真に収めた。

 記録写真について、北さんは調査前も含めて「少なくともフィルム3本、36枚の写真」を撮ったが、最初の2本は失われたと語っている(中国新聞、78年)。気象館に残る5枚のネガのうち、燃えた柵を撮った1枚は初期のフィルムに含まれていたとみられ、複製の可能性が高い。

発表は占領明け

 一連の調査報告は、占領下の検閲で発表できるかが不透明な状況となった。北さんは47年に「気象のことだけでも」と、ガリ版刷りの報告書を作った。進駐軍に没収されたが、一部をひそかに残した。公式には日本の占領が明けた翌53年に刊行された「原子爆弾災害調査報告集」に写真付きで収録された。

 北さんは51年、高知県に転勤。西日本各地の測候所や大阪管区気象台に勤め、67年に広島地方気象台へ戻った。72年に退職した後も、環境調査などを担う広島県の関係機関に勤めた。

 三男の伸彦さん(74)=安佐北区=は、亡くなるまで自宅の庭で気温や雨量の観測を続けた父の姿を記憶する。「記録を一つ一つ積み重ねることが後世につながる。観測者としての姿勢がたたき込まれていた」。北さんは撮影を「犠牲となった人たちに対する義務」と語ったが、伸彦さんは「むしろ観測のプロ、職業人としての仕事だったように思える」と振り返った。

 気象台は87年に広島合同庁舎(中区)へ移転。建物は90年、保存のため市に移管され、92年に全国初の気象専門の博物館として再出発した。開館時の記事には、北さんの喜びの声が書き留められている。

 「いつ壊されるかと心配だった。建物の歴史にふさわしい役目を与えてもらった」。晩年まで尽きることのなかった記録への意志を伝えるネガが、北さんがかつて働いた場所で今も保管されている。(明知隼二)

(2021年12月10日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

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