×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

家族6人失い 捉えた街

手記に癒えぬ悲しみ

 2006年、兵庫県西宮市に住んでいた野田功さんは1945年秋ごろに撮った写真を原爆資料館(広島市中区)に寄贈した。大破した広島県産業奨励館(現原爆ドーム)や、がれきが残る本通り商店街などを写した5枚。ほかの市民たちが同じ場所を撮ったカットはすでにあり、あまり注目されてこなかった。

 だが、4年前に92歳で死去した野田さんが残した手記を読むと、決して代わりのない5枚だと浮き彫りになる。86年に400字詰め原稿用紙39枚に書かれた手記「四十一年前の八月六日を思う」。家族に向けて書かれ、これまで表に出ていなかった文面をいとこの加藤一孝さん(72)=南区=が記者に読ませてくれた。

被服支廠に出勤

 被爆前、野田さんの実家は西引御堂町(現中区十日市町)で洋服店を営み、両親と5人きょうだいの7人暮らし。長男だった野田さんは旧陸軍被服支廠(ししょう)(現南区)に勤め、45年2月からは出雲市の出張所に転勤していた。20歳だった。

 8月4日から2泊3日の広島出張で自宅に帰り、6日の朝も家族7人で朝食を囲んだ。「皆の顔が見られる最後の機会になろうとは思いもよらなかった」(手記)。街中を歩いて午前8時前、被服支廠に着き、赤れんが張りの倉庫にいた。

 すると、「異状な光が鉄格子のついた窓から飛び込んで来た」。爆心地から2・6キロ。逃げてくる負傷者を救護した後、「家族に会いたい一心」で市中心部に向かったが、炎が上がる自宅周辺には近づけなかった。

 軍務の出張の最終日だったため出雲市に戻り、敗戦翌日の16日に再び出張で広島市に入った。抱いていた「皆に会える夢」は親戚の話で打ち砕かれた。母かずみさん=当時(42)、弟の明さん=同(13)=と武さん=同(2)、妹の隆子さん=同(4)は、爆心地から約700メートルの自宅などで被爆死。近所の葬儀に出ていた父植さん=同(48)=は行方不明という。手記にはわが家の跡で「変わり果てた姿になっている親弟妹の遺体を前に涙を流す」と書いた。

生き延びた妹も

 ただ1人生き延びた17歳の妹の芳子さんは、親戚宅近くの楠那国民学校(現南区の楠那小)に収容されていた。倒壊した家を何とか抜け出たが、「(家族が)『助けて』『熱いよ』と云(い)っているのにどうする事も出来なかった」―。妹の話を涙ながらに聞いた。

 野田さんは1人で歩けない妹に夜通し寄り添い、回復を願ってうちわであおいだ。今後2人でお互いを頼りに生き抜こうと意を決したという。その芳子さんもやがて体に斑点が出て髪が抜け、23日に息を引き取った。「今でも生きていて呉(く)れていたならばと思う」。手記は、癒えない悲しみを伝える。

 戦後、野田さんは勤めた会社の転勤で山口県や兵庫県で暮らした。加藤さんが子どもの頃、8月6日を広島で迎えるため毎年のように自宅へ泊まりに来た。「普段は落ち着いた人なのに、8月6日の朝だけは平和記念式典を流すテレビの前で大泣きをしていた」

 5枚の写真の寄贈は、後世に残すためにと加藤さんが勧めた。手記には「あの日」、県産業奨励館前、本通りを歩いて被服支廠に出勤したとあり、撮影場所と重なる。

 撮影の詳しい経緯は分からないが、野田さんがあの日を振り返りながら撮ったようにも思える。家族6人と引き裂かれ、1人取り残された男性がまだ原爆の傷痕があらわな街に向けたまなざし。手記と結びつけ、野田さんの被爆体験と胸の内に思いをはせたい。(水川恭輔)

(2021年12月13日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

年別アーカイブ