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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

「視線合う」 残酷な命令

寄贈先の学校で展示

 「こんなのを写真に写さにゃいけんのかな、思いまして。命令とはいえあんまり残酷じゃないかと」。尾糠政美さん(2011年に89歳で死去)は自らも被爆した翌日、苦渋の撮影を余儀なくされた。

使命感を否定

 宇品町(現広島市南区)にあった陸軍船舶司令部の写真班員で当時23歳。1945年8月6日、司令部で朝礼中に被爆した。帰宅命令を受けて司令部を離れたが、皆実町(同)に住む母マキノさん=当時(60)=は見つからず、平野町(現中区)の姉宅にも火災で近づけない。楠木町(現西区)の下宿にも帰れず、結局は司令部に戻った。翌7日、けが人の収容作業後、午後から似島(現南区)に渡った。

 陸軍の似島検疫所には6日から続々とけが人が運び込まれていた。背中が焼けただれた女性、全身を焼かれた男性…。軍医の命令の下で次々とフィルムに収めた。顔をひどくやけどした負傷者は、うっすらと開いた目をレンズに向けているようにも見えた。

 「写すときに視線が合うんです」「撮られる者の身になれば、こんな無残な光景をさらされちゃ」。尾糠さんは92年収録の証言で、命じられた撮影の苦しみを吐露している。「『将来に記録に残さにゃいけんから』で写真機で撮ることはできませんわね」と、使命感をもあえて否定した。

 8日以降も軍務で市内の収容所を撮影して回った。ネガフィルムは終戦時に軍命で焼却されたが、写真班の同僚や軍医がひそかにプリントの一部を残した。尾糠さんの写真は占領明けの52年、「原爆被害の初公開」と銘打ち話題を呼んだ写真誌「アサヒグラフ」にも撮影者名なしで掲載された。原爆資料館(中区)は現在、尾糠さん撮影のプリント6枚を保存する。

 母はついに見つからなかった。戦後は郷里に近い島根県川本町で写真館を営み、晩年は小学校で体験を語るなど、強いられた撮影に向き合った。2005年の中国新聞記事では「写真を見てもらえれば分かる。見てほしいのです」と語り、同年に写真展も開いた。

父の足跡思う

 尾糠さんはこの記事を、都内で学習塾を営む三男清司さん(59)=川崎市=に送っていた。「あれ以来、息子なりの使命を考えるようになった」。写真好きで、地域の冠婚葬祭を撮り続けた父が背負った重荷。月1回の塾報では毎夏、父の仕事を紹介し、原爆や戦争、平和について生徒や保護者に発信するようになった。

 尾糠さんは11年に死去。後を継いだ長男も16年に亡くなり、写真館は19年に解体された。残されたプリントや関連書籍を託された清司さんは「子どもたちに伝えたい」と、平和教育に熱心な都内の私立中高に寄贈した。同校は約3カ月かけ目録を整え、同年秋の文化祭で展示。今後は連携する他校での展示も予定する。

 「あの仕事の現場を絶対に知っておきたい」。清司さんは近く似島を訪れ、父の足跡をたどるつもりだ。「望んで撮った写真ではなくても、おやじは残そうとしていた。そのためにできることがあるなら、役に立ちたい」。自らに課せられたことは何か、考え続けている。(明知隼二)

(2021年12月7日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

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