×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

実家近くの城北つぶさ

35枚 父亡くし帰郷か

 広島市文化財団が2010年に刊行した図録「広島城壊滅!」は、広島城一帯の被爆状況をさまざまな写真から伝えている。倒壊した天守閣、その北側にあった広島陸軍幼年学校の廃虚…。城の北側で撮られたカットを中心に7枚が載っている。当時41歳だった谷原好男さんが撮影した。

 軍都といわれた広島は城周辺に旧陸軍施設が集積。谷原さんが城の北側から撮った被爆後の写真は、市中心街に面する南側からの写真と比べて現存が少なく、珍しいという。北九州市で写真店を営んでいた1974年、原爆資料館(中区)にネガを含む35枚を寄贈していた。

 ただ、谷原さんに関する資料は、ほとんどない。

 手記や証言映像は見当たらず、資料館に残るのは寄贈時に職員が聞き取った簡単な記録程度。それによると、戦時中は福岡県内で軍関係の写真現像に従事し、「父が原爆で死亡したので45年8月19日に来広。20日か21日に撮影」。詳しい撮影経緯は分からず、現在の連絡先も不明だという。

北九州で写真店

 「タニハラ写真材料店」―。記者はネガの包みに印字された店名などを手掛かりに関係者を捜した。店があった場所は拡幅された道路の一部となっていたが、同じ北九州市内に三女睦子さん(74)を捜し当てた。

 谷原さんは寄贈の10年後に80歳で死去。店は畳んでいた。睦子さんは「思い出したくないからか、父は原爆のことは話しませんでした。でも分かることなら」と取材に応じた。

 谷原さんは広島市出身。実家は広島城から約600メートル北の現在の中区白島北町にあった。33年に開設された製缶工場への就職を機に戸畑市(現北九州市)に移り住み、その後に同市内に写真店を開いた。

 被爆死した谷原さんの父は喜一郎さんといい、当時71歳。45年8月6日朝、白島の自宅近くで畑仕事中に原爆の熱線にさらされた。「じいちゃんは背中にひどいやけどを負い、傷口はうじ虫が湧き、とても見ていられんかった」―。睦子さんは子どもの頃、祖母から悲痛な話を聞いた。

 ほかの家族は助かったものの、爆心地から約1・7キロ北東の実家は全焼。カメラを携えて帰郷した谷原さんが広島城一帯を北側から撮ったのは、実家近くを歩き、被害状況につぶさに視線を注いだからだろう。

撮影時期に疑問

 睦子さんの話で、谷原さんのおいの裕さん(95)が広島市内に住んでいることも分かった。中区の自宅を訪ねると、谷原さんが撮った被爆後の広島城を見つめた。「もし予定通りに配属されとったら…。たまたま命拾いをしたんです」

 裕さんは金沢市の陸軍経理学校を卒業後、45年8月1日に広島城内に配属予定だった。だが、同校で伝染病が発生したため延期に。郷里に着いたのは、原爆投下で広島城一帯が壊滅してから6日後だった。敗戦後は裕さんが廃材を集めて焼け跡に小屋を建て、両親やきょうだいたち家族7人が雑魚寝状態で過ごした。

 裕さんへの取材で喜一郎さんの死亡日は45年11月16日とも分かり、資料館の記録に疑問が生じた。同館が谷原さんの写真を再検証すると、記録にあった「8月20日か21日」よりも遅い時期に見える写真が複数あった。11月も帰郷し、撮影したのではないだろうか。

 実際、写真の中には白島周辺とみられる焼け跡に建設中の小さな家屋の骨組みが見えるカットもあった。谷原さんが撮った35枚には、広島城近くで肉親と住まいを奪われた家族の被爆と再建の記憶が刻まれている。(水川恭輔)

(2021年12月9日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

年別アーカイブ