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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

学びや被害刻む新資料

被爆前の児童の姿も

 全焼した木造建物の跡に、焼け残った大きな防火壁。その異様な姿を背に、広島市内で写真館を営んでいた石川新蔵さん(1986年に83歳で死去)と、長男の正巳さん(2019年に85歳で死去)が並んで写真に納まる。一昨年、原爆資料館(広島市中区)に寄贈された石川さんのアルバムから見つかった一枚だ。

 資料館の調べでは、場所は白島国民学校(現中区の白島小)跡。爆心地から約1・5キロにあり、児童約100人が即死したとされている。校舎は全焼したが、延焼を防ぐための耐火構造の防火壁は残っていた。撮影時期は資料館の学芸員が検証中だが、所蔵写真と比べるなどして「45年秋以降、46年夏以前」とまでは推定しつつある。

街の混乱 手記に

 同校は石川さん親子の地元にあった。石川さんは30年、白島中町(現中区)に写真館を開業。学校依頼の撮影を中心とし、正巳さんが通っていた白島国民学校でも集合写真を撮った。ただ、43年8月に呉海軍運輸部に徴用され、呉市内の宿舎に移った。原爆投下翌日から、運輸部の救護班員として広島市内に入った。

 41歳だった石川さんは、壊滅した街の混乱を後に手記につづった。「多くの人達が子供をもふくめて吾吾(われわれ)の救護班なるを見て我も我もと集り来て何とかしてくれと、助けてくれと車目がけて群り集つて来る」(原文ママ)。息絶えた母親にすがりつく子どもも見た。

 国民学校6年生だった正巳さんたち妻子6人は市外の疎開先にいて難を逃れたが、白島の自宅周辺は大きな被害を受けた。石川さんは戦後、市内の別の場所で写真館を再起。再び学校関係の撮影を仕事にし、晩年は撮りためていた写真をアルバムに整理していた。

 「祖父がとても大事にしていたのを子どもの頃から見ていました。1枚でも役に立てばと」。孫の中須賀由美さん(58)=大阪府羽曳野市=は19年、資料館にアルバムを寄贈した。祖父の店と遺品を継いでいた父正巳さんが同年に亡くなったのがきっかけだった。

100枚以上を収録

 石川さんは、資料館がそれまで把握していた原爆写真の撮影者には含まれていなかったが、アルバムは被爆前と戦後の広島の写真100枚以上を収録。撮影場所と時期の記録がないカットが多く含まれる中、学芸員が一枚一枚を検証した。

 その結果、防火壁などが写る3枚は被爆から早い時期の広島の未確認カットだと判明し、白島国民学校跡などと場所を特定。資料館は現時点、本人が写っているカットもカメラをセットして撮られた写真と推定し、石川さんを撮影者と位置付けている。

 また、石川さんが被爆前に撮った同校児童の集合写真も確認。遊具を絡め、児童の表情を巧みに捉えていた。資料館は開催中の新着資料展で被爆前後の同校の写真を一緒に並べ、石川さんがアルバムに記していた言葉を掲げている。「原爆は只(ただ)一発で広島を灰にしてしまった」―。

 中須賀さんは先月、会場を見学し「寄贈は祖父への恩返しになったと思う」と目を細めた。祖父、父を継いで幼稚園の写真撮影に携わる弟の真さん(57)=安佐南区=も同行し、防火壁の写真を見つめた。「子どもの学びやまでも、どれほどひどい被害を受けたか。祖父は自分の職業意識からも一目で分かる写真を残そうとしたのではないか」

 被爆者や遺族の高齢化や死去に伴い、アルバムなどの写真類を次の世代が受け継ぐことは少なくない。散逸を防ぎ、調査をすれば、被爆実態を語る新資料になり得る。(水川恭輔)

(2021年12月14日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

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