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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <4> 現中電本社から 岸本吉太さん撮影

復興の定点観測「義務」

娘亡くした街 8年間

 倒壊を免れたコンクリート建造物が点在するほかは家屋も木々も焼け落ちた広島。中ほどには、後に原爆ドームと呼ばれる県産業奨励館も小さく写っている。岸本吉太さん(1989年に87歳で死去)が45年10~11月に残した写真だ。

 中国配電(現中国電力、広島市中区)に依頼された仕事の一環で、同社の屋上から四方を撮ったうちの1枚。岸本さんはその後も53年まで同じ場所での撮影を続けた。一連の写真は、惨状から復興する街の姿を今に伝える「定点観測」となった。

 岸本さんは当時43歳。田中町(現中区)に写真館を構えていた。45年8月6日は妻静子さん=当時(35)=もいた牛田町(現東区)の自宅で被爆した。済美国民学校(廃校、現中区)2年だった長女の澄江さん=当時(8)=は「カボチャの給食」を楽しみに登校していた。

再びカメラ手に

 手記や家族が残した記録によれば、夫婦は戻らない娘を懸命に捜索。自宅に近い神田橋付近で、全身にやけどを負って逃げ帰ってきていたらしい澄江さんを静子さんが見つけた。澄江さんは「お母さん、来るんが遅かった」と言い、収容所に運ばれる途中で息を引き取ったという。

 「娘を失って被爆直後はカメラを手にする気にもなれなかった。中国配電の依頼調査があって、やっと写真を撮ることが出来(でき)るようになった」(中国新聞、81年)。岸本さんは45年秋から撮影を再開し、発電所や電柱など配電設備の被害状況をつぶさに記録した。

 「毎年同じ場所から復興の様子を記録しよう」との定点観測もこの中で着想した。「広島の悲劇を記録にとどめておこう、それが生き残った一人の市民としての義務であろう」(広島原爆戦災誌、71年刊)との気持ちも芽生えていた。

写真保存活動も

 戦後も写真館を営み、78年には「広島原爆被災撮影者の会」に参加。積極的に原爆写真の保存活動に関わるようになった。学校での証言や写真展示もした。

 ただ、家族の目には癒えぬ傷も見えた。岸本さんの長男坦(ひろし)さん(2020年に85歳で死去)の妻瑞代さん(82)は、63年に長女を授かった。義父母は「澄江ちゃんによう似とる」とかわいがった。同じ敷地内の自宅に連れ帰って一緒に眠り、特注の服を着せて写真を撮っては店に飾った。「私自身も澄江さんと1学年違いで、ずいぶんかわいがってもらった」。物静かで、家庭では被爆について語らなかった亡き義父の痛みを思った。

 08年、中国配電の関係者宅から岸本さんの定点観測や被害調査のオリジナル写真54枚を貼ったアルバムが原爆資料館(中区)に寄せられた。次いで、岸本さん方でもガラス乾板など200点が見つかり、資料館がデータ化するなど保存・活用を図っている。

 岸本さんが被爆後8年にわたり撮影を続けた定点観測写真。記者は、戦後の変化にあらためて目を凝らしてみた。

 焼け跡に草が生え、ぽつりぽつりと建ち始めたバラックが次第にひしめき合う。そして平和大通り整備に向けた区画整理が始まっていく―。被爆からの移りゆく暮らしを淡々と見つめ、写し取っていた。広島に生きた写真家が、娘のいなくなった街で撮り続けた記録である。(明知隼二)

(2021年12月8日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 「原爆写真」212枚寄贈

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <1> 本通りの惨状 岸田貢宜さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <2> 目前の原子雲 深田敏夫さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <3> 似島検疫所 尾糠政美さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <5> 壊滅した広島城 谷原好男さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <6> 地方気象台 北勲さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <7> 職場への道 野田功さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <8> 破壊された店舗 井上直通さん 林寿麿さん 撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <9> 防火壁前の親子 石川新蔵さん撮影

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 原爆被災写真 <10> 8月6日の市民 松重美人さん撮影

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