
米国出身で東京在住のジャズピアニスト、ジェイコブ・コーラーさん(41)による被爆ピアノの野外演奏が17日、広島市中区の原爆ドーム前であった。「荒城の月」やジャズの名曲を披露し、被爆地で平和の音色を響かせた。
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故丸木位里、俊夫妻が描いた「原爆の図」の第1部「幽霊」が16日、初の本格的な修復に向け、埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館から搬出された。愛知県立芸術大文化財保存修復研究所に送り、2023年3月の完了を見込む。
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広島戦災供養会と広島市は11月25日、平和記念公園にある原爆供養塔の周りを清掃した。
遺族の元に戻ることができないままの犠牲者に、安らかに新年を迎えてもらおうと、毎年この時期に行っている。
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「ローマ教皇フランシスコが被爆地広島を訪れてから2年を迎えた24日夕、平和記念公園(広島市中区)でキリスト教や仏教の関係者たちが記念行事を開いた。核兵器廃絶を願って祈りをささげた。」

中国新聞ジュニアライターは「文化の日」の11月3日、広島国際会議場で開かれた「市民平和文化イベント」に参加しました。原爆ドームが世界遺産登録から25年を迎えたのに合わせ、クイズ形式で紹介しました。
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原爆投下からわずか3日後、焼け野原となった広島市内で運行を再開した路面電車は、「一番電車」と呼ばれ、復興の象徴として語り継がれてきました。当時14歳だった笹口里子さん(90)は、一番電車の車掌を務めました。
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ユネスコの「世界の記憶」に原爆文学関連資料の登録を目指す動きが広島市内で広がっている。被爆作家・原民喜のおいの時彦さんに、登録への意気込みや、民喜が被爆直後に惨状を記録した「原爆被災時の手帳」について思いを聞いた。
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米国人ジャーナリストのジョン・ハーシー(1914~93年)が、75年前の8月、ルポ「ヒロシマ」を発表し、原爆の被害実態を明らかにした。ハーシーが聞き取りを重ねた6人のうちの1人である故谷本清牧師の長女・近藤紘子さん(76)=兵庫県三木市=が、「ヒロシマ」が世界に与えたインパクトや、自身の被爆体験などを語った。(聞き手は桑島美帆)
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爆心地島病院の故・島薫院長が読み上げた「吊詞(ちょうし)」(弔辞)と、病院の設計図が島家の蔵で見つかりました。長男の一秀さん(86)に、戦前戦後の島病院の様子を聞きました。(聞き手は桑島美帆)
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広島では、市中心部で建物疎開作業に当たっていた多くの少年少女たちが原爆の犠牲になりました。広島市立第一高等女学校(市女)の2年生だった黒河(旧姓北山)直子さん(89)は、父親の判断で郊外へ疎開していたため、無事でした。
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建物疎開作業に駆り出され、原爆の犠牲になった広島市立第一高等女学校(市女)の1、2年生541人の大半の学籍簿が舟入高に残されています。当時、市女の2年生だった矢野(旧姓池田)美耶古(みやこ)さん(90)に、級友たちの思い出や、今感じていることを聞きました。(聞き手は桑島美帆)
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